改めて、私 (1997年記)
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持病 転機 母親 ブレーキとアクセル

持病

 友人に問われれば「生まれた時から心臓の形が違っていて」と説明するが、先天性三尖弁閉鎖症というのは説明に困る。心臓病というと大抵は弁膜症や狭心症などを想像するようで、弁膜症と似ている病名は、医師にも勘違いされる。こちらも説明はするが、時間に追われている医師になかなか聞き届けてもらえない。
 健康な状態があった後天性の場合と違い、私は状態を言語化することが苦手だ。体調、疲れなど主観的な症状ばかりで、尺度の基点も違う。季節により日によりかなりの差もある。それをどう説明したら理解されるか。血糖値のように数値化できれば、見かけが悪くなくても納得してもらえるだろうに。
 自分が周囲よりペースが遅いとの自覚があるため、待っている患者の姿がプレッシャーになり、伝える前に諦めてしまうこともある。
 こうして病気持ちの病院嫌いになった。不幸なことに。

追記:循環器でも内科と小児科の違いがあり、大人を診るための内科では先天性の病気を診る機会は殆どないため、現状を一から説明する必要があるようだ。考えてみれば、重症の先天性疾患の患者は専門病院にかかっている上、点在しており、個々の医師に知識がなくても仕方ないのかもしれない。このあたり、一般の常識と異なっているだろう。


 暑い時期は動きが悪い。暑さがこたえ、冷房の効いている場では閉めきりの空気の悪さがこたえる。
 外出は車に頼る事は少ない。狭い空間に長時間いることが苦手なせいもある。自分で運転できないせいもある(疲れると集中力が落ちるため事故が心配)。やはり、自分で動いていたい。
 体調が良ければ電車の席が空いていても立っていることもある。普段はなるべく階段の登りは避けて、多少距離があってもエスカレータなどを使う。平地は、体調が悪ければ急ごうにも進まないが、普段は普通に歩いている。
 過労になるのか、外出先で具合が悪くなる場合があり、その際は目の前が白くなり、ひどい時は音が遠退き、体が重く立っていられない。膝を抱えてしゃがんだ姿勢で楽になる。思考力などは普段とあまり変わらない。暫く楽な姿勢でいると回復するので、ひとりの時は普段よりペースを落とし、ひとりで帰宅している。


転機

 昨年あたりから特に揺れる時期に入ったようだ。よく動いている。
 一昨年暮れより昨年2月にかけ、父入院のため、事務所の仕事のフォローで普段は週1度のところ週3度ほど電車で片道1時間余りの東京まで出かけていた。
 サークルの会合(2月に1度横浜で)、シンガーの東京でのライブにはかかさず出かけ(平均2月に1度)、ファンクラブの会報編集を(打合わせ含め1月半に2度都内で)続ける。
 5月、札幌でのライブ、7月、再び北海道のライブに出かける。会報編集は9月で手を離れる。年末、ライブ活動が今後暫く休止になることに。盛り上がった後一気に波がひいていった感がある。
 改築の話も具体化、進行。7月下旬、引っ越し。11月、取り壊し工事へ。生まれ育った家がなくなった。
 今年になり、細かい造作などを夜遅くまで話し込む日が多くなる。

 入院より10日ほど前、芝居を見に夕方から池袋へ。終了後、友人宅へ行き、夜遅くまでビデオを見たりし、横になるが寝付かれず、朝まで話をしたりで殆ど眠っていない。ビデオの続きを見たり、夕方まで過ごし、家まで車で送ってもらう。
 翌日は月末で、午後より事務所に行く。
 次の日曜日、電車で2時間近くかかる友人宅へ。雨降りの中、重い図面を抱えて出かけるのはきつさはあるが、改築のアドバイスを受けなければ、家の中が落ち着かない。しかし、話し込んでいる内に気がつくと足を抱える姿勢となる(行儀悪いが楽なのだ)。車で家まで送ってもらった。疲れが溜まっていた。

[入院までへ続く→]

 人見知りだ。相手がわかってからでないとこちらも何もできない。同様に、初めての場所や物事に対する緊張が強い。その上身体の具合が悪いとなれば、研ぎ澄まされた知覚が、目の前の物事や人に集中して働く。
 普段なら気持ちに余裕があるのでやりすごす方法もあるのだが。
 急な入院は私の性格の悪い面が表れていた。

・看護婦

 心臓病を持ちながら看護婦をしている同世代の方が訪ねてきた。看護婦さん達の心遣いに感謝。
 夢を実現している彼女の姿は、一方で自分の過去の躓きに目が向くことにもなり辛くもあった。

 小学校から学校で一日過ごす事は滅多になかった上、休みがち。中学時代の後半は殆ど学校へ行っていない。体調が悪い時期でもあったが、厳しい規則で動く学校社会に対応できなかったことと反抗期で親に敵対する気持ちとが重なった。社会経験に乏しい、自分から動く事はあまりしない、だから人の集団にいることが必要ではないかと考えたが、その頃は学校以外の場は考えられなかった。そのため卒業間近に留年したいと伝え、卒業式も欠席したが、クラスメートが卒業証書を持ってきたため、納得できないまま受け取る以外なかった。
 高校の通信制過程にすすんだが、その頃はまだ重い教科書と教材を持っての2週間に1度片道1時間ほどのスクーリングはきつく、結局止めてしまう。
 かつては、看護婦が夢だった。福祉関係の職業も体力的性格的に難しいだろう。それでも、気がつけばその系統の本を読み、放送大学では福祉系の科目をとったりとさまよっている。
 今は弱すぎて人に貸せる力もない。何かできることがあるだろうか。

・特殊

 ある時、医師は言った。特殊な病気で辛いこともあったでしょう、と。こめられた意図はよく解っていた。ありがたかった。でも応えながら、特殊という言葉に引っ掛っていた。特殊だから辛かったのか?
 客観的に見れば、特殊だし、他に言い様もない状態だ。けれど、こちらからすれば、健康な人々が何故あんなに動けるのだろうと不思議だ。しかし彼らのペースで成り立っている限り、こちらが努力して追いついていても、こちらから言わなければ気付いてはもらえない。周囲が何と思おうとマイペースでいれば、周囲とぶつかることになる。
 こだわったのは、それだけ心に掛っている様々なことがあるからだろう。

 心臓病というレッテルを張られ、何事も心臓病ということで納得されていた時期がある。学校では、皆同じ事をする事が求められるため、レッテルを張らなければいられなかっただろうが、こちらも自分を主張する努力を失していた。
 子供の頃、病気の解説の本をくり返し読んでいた時期があった。大多数の人と違うことは解ったが、身体の構造以外は違うのかはよく解らなかった。私は大多数のことを知ろうと思ったし機会に恵まれていたが逆は、と考えると、こちらが伝える事をしなければいけないのかもしれないが、聞く耳を持っている人がいるだろうか。


母親

 普段は外出で遅くなる事も止めだてしない人だが、今回、私の事を心配して行動する母のエネルギーに圧倒されていた。心配する原因もよく解っている。
 小学校の通学は母の自転車での送迎だった。学校の方からもそれを求められていた。中学校では不登校の状態を嫌った学校側が養護学校を勧めた事もあった。それに対抗できるのは母しかいなかった。
 手術の後、付き添っていた母が状態の悪さを見抜いたが、周囲がなかなか取り合わなかった事もあった。
 あの人でなければできなかった事。守ってくれなければ今の自分はなかっただろう。感謝している。でも逆にその事が重荷にもなる。

 私の具合が悪い時に他人に状況を説明できるから頼んだ。けれど一緒の時に医師の言葉が彼女の方へ向かい、私はそれを越えて答えられなくなっていた。医師の力が必要なのは私なのに。
 病気を持っている者の家族だから、身近にいるから、守るのは当然。周囲も含めそう思い込んでいるようでならない。

 化学物質過敏症がある彼女は、今の医療体制の中では、症状があってもそれを改善するような治療をなかなか受けられない。
 私も医療だけで苦痛はなくならない。その点では、お互い状況を察する事ができる、同士なのだけれど。

・食事

 よく考えられて作られている病院食。学校給食がこうだったら。子供があんなものしか食べさせられていなかったのかと今更ながら給食の味気なさを感じた。また、メニューが家と大して変わらない、という事は母のお陰で体調を保っていられたという事だろう。好き嫌いがないこともあるだろうけど。


ブレーキとアクセル

・ブレーキ

 出先で具合悪くなったとしても、それがブレーキだからそこで休めば問題ない、うまくできた身体だと思う。このあたりは楽観しすぎだろうか。
 しかし、疲労が進んで来るのはわかる。周囲に対して注意が向かなくなり、人と話をしている時は相手の言う事が聞き取りにくくなったり、意味をとるのも答えの言葉を選ぶのも時間がかかったりする。相手から見れば、表情が乏しくなるのがわかるはずだ。BGMを煩く感じ、集中できなくなったり、室内の空気の淀みやたばこの煙に敏感になったり、人前では気が引けるもののあくびを連発したりする。無意識の防御反応だろう。そこで休める場所があればよいのだが、適当な場所がないことも多い。

・無茶

 わかっていて無理をする事がある。
 一度、出先で腹を立て、気が治まらず街中を歩き回った事があった。案の定、帰宅途上の電車内で具合が悪くなり、途中駅のベンチで横になった。痛飲してこんな状況になる人もいるから、それと同じだと思う。
 一度、終夜営業のファミリーレストランで徹夜した事があった。午後より狭いライブハウスの小さな椅子で長時間音楽を聴き、終ったのは終電の時刻だった。(蛇足だが、それは年末に持ち歌をすべて歌うという企画だ。年々時間も長くなるため、翌年からは対策を考えたが、最高103曲をひとりで歌いきるのだから歌った方もすごい)それから居場所をファミレスに移したが、たばこで空気が淀んでいたのと疲れとが重なり、やはり具合が悪くなった。外に出て電車が動きだすまでの2時間ほどを過ごし、友人に途中まで送ってもらい帰宅した。
 無茶をすると限界がわかるので、たまには必要な事だと思う。周囲の方々に心配をかけ申し訳ないと思いながら。

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