車椅子に乗る人は、それで移動できるのだから
車椅子(の人)が障害なのではなく、段差があるところで障害になる。
この頃は、そんな風に説明されるようになったんだね。
障害のある人とない人の間の差、そして、壁。
たいてい一方の側から見ているけれど、双方の間にあるもの。
向かい合った時には、たぶんどちらもが感じていること。
社会の方にある段差に、越えられずに行ったり来たりしている人、そばを通る人。
たとえ通り過ぎたとしても、気がついた人は、何かを感じているはず。
差し出される手を待つ人、越える工夫をしている人、いろいろだけれど、
段差がどこにあるのか、壁は何なのかをきちんと見極めていけば、他の人に伝えられる。
それが他の人の役にもたつ。
見えにくい、示しにくいことも多いのだけれど、
それを見極めて伝える工夫を考えていきたい。
子ども時代、二十歳まで診て頂いた元主治医の訃報が届いた。
寂しいし、とても残念に思う。
私の中の先生像は、ずっと変わっていない。
昨年お目にかかる機会があり、姿も変わることなく、
ただ、小さくなったように感じられて、切なかった。
これは、入院時(小学生の時)にお世話になった先生方も同じで、
お見かけすると、年齢を重ねたことを実感する。
若くてエネルギッシュだった先生方も、白髪が多くなって。
そう、もう、私の年代が活躍する時期になっているんだね。
亡くなった先生が書いた文献が手元にある。
先天性心疾患の成人患者が直面する問題が、
医師の観点で、わかりやすく示されていた。
'88年、ということは、私が診て頂いていた頃のもの。
今まとめようとしている卒論の資料を探していて見つけ、
先生が書いたことを知り、その頃から考えられていたのだと。
具体的な動きが起きたのは、ずいぶん後だけれど、
それまで自分だけが悩んでいるような気になっていたけれど、
私が二十歳になる頃には、言われていたことなのだと。
それを知っただけでも、卒論に取り組んだ甲斐がある。
いや、この文献を使ってきちんと書き上げて、見て頂きたい。
そんなことを考えていた矢先に、叶わぬ夢となった。
一流の仕事をする大人に子どもの頃から関われたことは、
もしかしたら、とても大きな財産なのかもしれない。
ふとそんなことを思いながら、
先生と再び縁を結んでくれた友人と出会えた巡り合わせにも感謝しながら。
もう戻らない時間の前にしばし立ち止まった。
ご冥福をお祈りいたします。
動きたいと何かをしても、続かなくなっている。
続けようと思っていても、行動が保てなくなっている。
体力が落ちたのか、鬱っ気が強くなったのか、何なのか。
それでも、今しなくてはいけないことでは、前進中。
とはいえ、すべてはやり切れないかもしれなくて。
そんなことで周囲には迷惑かけそう。ごめんなさい。
鬱なら鬱でいいと思う。負け惜しみでなくて。
うつは病気や治療が必要なものでもあるけれど、
困難さの中で生きなければならない時のひとつのありようだと思うから。
精神的フォローを、前は専門職や持病の医師に求めていた。
今はそれなしで、やっていける方法をみつけたいと思う。
だから、変だなと思う時は、できるだけ休んで身を守る。
心臓病者の精神心理的問題に、抑うつ、パニック障害が挙げられる。
以前('98年)、専門医の講演できき、自分も当てはまると思った。
原因は何が考えられるのか、気になった。
でも、原因よりも対処法、それも自分で見つられたらと、今は思う。
(ただし、原因をつくらない、問題を軽くする方法も必要。忘れずに考えていただかないとね)
そういえば、講演の後、
こんな感想文を書いていたんだね。
前年入院した際、医師を前に人生で何度もないと思われる強いパニック発作。
そこから、まだまだ立ち直っていないあの頃に、
医師を信頼し、患者と繋ごうとする文を書けた自分がとても愛しい。
もちろん、伝えたい人の姿があったから、書くことは必然でもあったけれど。
今は安定しているので、病気そのものとの闘いはない。
ただ、置き土産が時折顔を出し、その闘いはある。
それでも、今まで少しずつ変わってきた過程があるから、
不安を感じつつ、それと同じくらい、これからどうなるか楽しみ。
今は飛躍の前の足踏みだと願いつつ。
しばらくは、のんびりと、Going 悠々。
*講演の感想から:「因みに、抑うつなどが挙げられたときは、思い当たることもあり苦笑しましたが、あまりない体験をしたことと、常に心の片隅に不安を抱えていますので、ある意味当然といえるのではないでしょうか。気持ちのやり場、発散の仕方がわからないのだと思います。」
内部障害という言葉は、広がりつつあるけれど。
そう言われる立場としては、複雑な気分。
障害なんていう言葉はなくなればいいと思うから。
いろいろな人や場があることが当たり前の社会なら、
何も障害なんていう言葉を使って言いたてなくても済むものだから。
例えば、電車が混んでいれば席に座れず、体力のない人は苦労する。
仕事も会社勤めしなきゃだと、周りに合わせられない人はいられない。
けど、その人に合う別の選択が特別のものではなく、負担なくできるなら、
座りたいと言えば、言うからには理由があるはずと譲ってもらえるなら、
周囲に障害があるなんて言わなくてもすむ。
もちろん、理由があってこうしたい、と言う必要はでてくるかもしれないけれど。
公的な支援が必要なこともあるから、そのためには必要かもしれない。
でも、そうしたら、個々の状況があって、
それに合わせた支援を組んでいけばいいのだから、
内部障害ではなく、難病、慢性疾患、病名でいいのでは。
そもそも、身体障害の区分なのだけど、イメージがわかない。
呼吸器、心臓、腎臓他、いろいろなものがいっしょくた。
これでは、内部障害者を理解してと言っても難しい。
だから、広がるより前に廃れる方を、ちょっぴり願う。
付記:障害者と言われる立場
障害者=私、ではなくて、外から与えられた意味付けと思うので。
障害者ということで、周囲の他の人とは全然違うものとされたくないし、
自動的に周りが何かしてくれることを期待する気持ちが強くなりかねない。
それを防ぎたくて、意識的に距離を置きたくなる。
病気のことを知るための手だてはいろいろあるけれど。
本当に必要な情報にたどり着くのは、なかなか大変。
一般向けの医学書には、病気そのものがごくあっさりと書かれているだけ。
病気の人にとって一番いいのは、専門医が患者向けに書いた本。
慢性の病気なら、病気との付き合いに配慮して書かれていることも多い。
もっと専門的な本は、とっつきにくいけれど、ごく客観的に記されている。
診察の中では、自分自身のことでもあるし、
医師という人との関係や感情が入るものだけれど、
そこから離れて客観的な文言をみて、冷静になることもある。
子どもの頃、家にあった解説本で、病気の知識を得ていたが、
それは、図解も、このサイトの
図説のような感じ、
大人向けだったのに、小学生でも大変さが感じられた。
最近の本は、細かいことまで触れられ、却って理解しづらくなっているように思う。
細かい正確さではなくて、本質がつかめる正確さを持った本があったらと思う。
いつでも、患者・家族・友人に限らず、知りたくなった時に知ることのできるよう、
ごく当たり前に、子ども向けと限定しない、簡単な本があるといい。
病気に囚われている、と友人から言われたことがある。
そう、そうなのかもしれない。
だけど、顔の痣など、支障がなくても気になることがあるもの。
まして、日常の様々なことに影響を及ぼすものだから、
どこかで意識しないとならないものだから。
そして、足を取られたこともあったのだから。
これは、しかたのないことではないのかな。
それでも、もう少し別のところに意識を向けてみたり、
別の視点からみようとしたり、してみることは大事。
健康でも大変なこともあるのだし、
そのことまで、病気のせいにしたくはないから。
周囲と同じにしていたいと願っていたけれど。
厳しい校則で縛る中学校で、同じにと求められる中では、
配慮もささいな違いも、特別なこととして浮き立つ。
重い革カバンは持たずにサブバックだけで通うことや、
時限の途中に行くことは、平気だったのだけど。
忘れ物をした人の班は、全員椅子に正座が日常の中、
いつものように遅れて教室に入ると、
クラス全員連帯責任で床に正座中。
一体どうしたものかと思いつつ椅子に座る、居心地の悪さ。
学校が近くなり、自分で通学、
新たな気持ちで、できることを積極的にやろうとした。
でも、所詮ある程度できるようになったということ。
すごいねというクラスメートの言葉がだんだん重荷になった。
生徒手帳にある靴下の色、髪の長さは誰もが知っている。
でも、明文化されていない決まりはどこから出たのだろう。
ある日クラスメートから指摘された。
三つ編みをくくるゴムは、黒、紺、茶でないといけないのだと。
量が多く、油っ気のある髪は、細いゴムではすぐ切れる。
だから、太いゴムをしていたのだけれど、
指定された色は探しても見当たらず、代わりに一番近いと思う緑にした。
それも遠慮して、マジックで黒く塗りつぶしてつけていた。
それでもダメと、担任の先生に言われ、何故かと訊ねた返事は、
黒く塗っても緑は緑。
そうか、それなら、私はいくらみんなと同じにしても、
病気の悠さんと見られるんだ。…気が抜けた。
冬服で過ごす時期で暑かったある日、
上着を脱いでいてもいいのだときいていた私は、
一緒に歩いていた友人に、脱いでもいいんだよと言ったら、
悠さんならいいんじゃない?と返された。
誰だって我慢していたら身体によくないのに。
当たり前のこと言いたくても、そこにある隔たりに、呆然。
主張も反論もできないのが悪いと思っていたあの頃。
私が繊細だった、見方が狭かったと思う一方、
そこから離れ、環境もまた悪かったのだと思うようになっていった。
狭い一時期のことではあっても、学校は社会の縮図。
大変さに奪われたものも大きかったけれど、
それだから知ることができた様々なことは、今は得難いもの。
身体が弱いという表現がある。
病気や障害があればケアが必要だし、弱者という言葉もある。
でも、病気や障害があるというのは、弱いことなんだろうか。
生まれた時から病気があるということは、
受精卵が見えないうちに流れたり、途中で亡くなったりすることなく
この世までたどり着けたということ。
順調にきたなら、なにも問題が起こらないところを、
様々な困難と遭遇し、それをひとまずクリアしてきたからいられる。
それは、強いからこそできたのではないか。
病気や障害があれば、当たり前に暮らすことにも努力が必要だけれど。
だから弱いのではなくて、ここにいられるのは、強いから。
頼れるものをみつけてすがることだって、自分を生かそうとする強さがあるから。
健康な人は当たり前に過ごしていても、力を発揮していないのだから。
生きていること、当たり前に過ごしていることにも、強さを発揮しているのだと、
時に思い出していたい。
病を得ることを、人生のある種チャンスと捉えることばを本屋で見かけた。
病気や障害とともに暮らす人の書いた本のコーナーもある。
チェックしながらも、微妙に距離をおきたくなる。
意味をつけることは必要かもしれないけれど、押しつけられたくはなくて。
そんな中で、いい本に巡り合うことは少ないけれど、
心理関係の棚にあったこの本を手にとったら、なかなか素敵な内容。
「すべてが私を待っている。何も急ぐことはない。 病と生きる言葉」
岡崎光洋 著 新風舎病気の人の心の支えになる言葉を拾い集めた本。
著者も病とともに生きる人。
集められた名言も、心理士の経験もこめたコメントも、さすが。
押したり引っ張ったりしようとするよりも、
一緒にそばにいるような、寄り添うような励ましが、一番力になる気がする。