病気(障害)のある子どもを産んだ痛みを抱える親御さんの姿を見ると、
違うんだよ!といつも言いたくなる。
本当は、病気(障害)なんかじゃないもの。
人それぞれ、顔の造作が違うように
ただ、心臓の形が違っているだけだもの。
そう、あれは私の体が出来はじめた頃。
形が変わっていくのが不思議で不思議で。
そこが心臓になるともわからずに、
ここ、ちょっといじってみたら、どうなるんだろう?って。
触ったら、あれあれ??なことになっちゃって、
あわてて戻そうとしたら、もっとどうしようもないことに…(泣)
やっちゃったんだよね。いじっちゃダメだったんだよね。
こんなになっちゃったよ、どうしよう…、って、すぐに伝えればよかったのに、
そうすれば胎内で起きる計り知れない力でフォローしてもらえたかもしれないのに。
自分のせいだ、なんとかしなきゃ、って思って、伝えられなかった。
だから、この身体で生まれてきたんだ。
お母さんに、家族に、苦労かけて申し訳ないって思うのは、私の方。
不具合があるのに、生まれてこられたのは幸運なこと。
だから、いつもうれしかった。
たくさん食べられなくても。動き回れなくても。
心臓病と診断され、長くは生きられないと言われたとも知らず、
食べない、歩きださないで心配されたことも気づかず、
穏やかな毎日が、楽しかった。
でも、いつまでもそうしてはいられなかった。
誰しも、家庭内から、外で過ごさなければならなくなるから。
家では自分のペースでいられるけれど、外ではそうはいかない。
だから、緊張するし、うまくいかないことが嫌になったりする。
どうしたら、周りと上手くやっていけるのか、
方法を見つけることも、実践することも、難しくて途方にくれる。
周りと同じにできないなら、周りと違ってもいいではないか。
でも、それで本当に大丈夫なのか。
疲れたら休んでもいいというけれど。
集団の中では合わせる必要はあるのではないか。
それはどこなのか、何なのか、どうすればいいのか。
様々な疑問が浮かび、身動きがとれなくなる。
そんな学校時代。
評価される立場でも、支援の必要な子どもでもない、
私が私でいられる時間がたくさんあれば、
その間は、劣等感も社会的な不利も関係ない。
けれど、周りと同じようになりたいと願った私は、
できないことをできるようにすることばかりに注目し、
自分の強みを活かせず、疲れ果てた。
そんな葛藤はもどかしいが、無駄ではない。
当時は苦しかったが、大事な気づきをもたらした貴重な時間。
私にとっては必要なこと。他の人とは違う、これが私の若者時代。
見ている方がつらいものかも、と渦中から離れた今はそう思う。
私が病気とされるのは、人間だから。
他の動物なら、未来を予測して悩むことも、自分を変える努力もせず、今を生きるだろう。
もう一つは、大人になること、高齢になるまで生きることが当然という世の中だから。
健康な人と同じように過ごすのは難しいとみなすから。
医療技術がこれほどない国、医療を受けることが難しい地域にいれば、見方が違うはず。
私は、生まれれば必ず、この世を去らねばならず、早いか遅いかの違いがどれほどのものかと感じていた。
その人にはそこが去り時というポイントが、きっとあるのだろうと、10代の頃から思っている。
それが何歳であれ、去り時には、どんな力をもってしても止められず、
事故なり病気なり何か理由になることが起こり、逝くことになるのだろう。
同年代や年下の病気仲間が幾人もこの世を去った一方、
手術不可能で、今の医療でも出産を止められる状態の、父と同じ昭和一ケタ生まれの知人は、
60代半ばで去った父より長生きした。主治医に内緒で出産し、立派に育て、旦那さんを見送って。
可能性は本当にわからない。
だから、選択しなければならない時は、状況をみながら自分の感覚で決め、
起きたことを引き受けていくことがすべてなのだと思う。
(出産に関しては、生まれてくる命への責任が長期にわたるため、一人では負えないことを忘れずに)
私が障害者といわれるのは、社会が人並みでいることを求めるから。
求められることができなければ、周りから価値を認めらず、就職できない。
ある程度のことができなければ、生活を続けていかれない。
だから、障害と名付けて対応しなければならなくなる。
それが動物であれば、不自由さや不利がどうあろうと、できることをしていくだけ。
深く考えず、その時の状況の中で精一杯のことをしていくだけ。
人間は、ややこしい。
当たり前に生きることが、人間だから、難しい。
今、この世にいること。それだけで選ばれ、満たされているはずなのに。
もうこれ以上、分け、名付け、分析し、難しくするのはやめてほしい。
一日を慈しみつつ生きていこう。