医療技術が進んだことが、必ずしも幸せにつながらないようで。
医療と関わらざるを得ない私は、気になった疑問を考えてきた。
現代文明を受け入ず、馬車が道を行き、畑を耕すのも機械ではなく馬、
そんな暮らしを続けるアーミッシュと呼ばれる人たちのコミュニティーが、アメリカにある。
昔の暮らし方では、私のような者は素の(医療の手をかけない)寿命なのだろうか?他の病気の時は?
情報の少ない中で読んだ本
*で、彼らも病院へ行くことを知った。
*アーミッシュホームにようこそ 堤純子・著 未知谷
どの程度の治療を受けるかはわからないし、ご都合主義という批判もあるそうだが、
信仰するキリスト教の解釈で、精一杯生きることが神の望みにかなうこと、という点から、
病気で医療を受けることも神の御心にかなうとみているらしい。
すべてが昔のままではなく、文明を受け入れるかどうか、長老たちが合議で決めるという。
良いと思われたことが、後々よくない変化となることや、
少しの変化が、暮らしぶりや行く末を大きく変えることもあるのだから、
長い目で見たときにどうかを慎重に見極める知恵なのだろう。
今の日本では、選択肢を示されるが長老の知恵を得られない。
自分で判断しなければならない、大変な時代だ。
結果が大きく変わる振れ幅の広い選択肢、自分の判断で決まる行く末。
その重さを引き受けなければならず、
命や生き方のこととなれば他人に相談して片付くことでもない。
外の世界がいい、と、アーミッシュから抜けようとする若者もいれば、
一度は離れようとしても、なじめずに戻る者も少なからずいるという。
どちらにしても、一つの世界にしかいられない。
日本のこの時代も良し悪しはあるけれど、
今いる世界で、できるだけのことをする。
それは、どこにいても変わることはないのだと、改めて感じた。
私は生きることが善いという考え方に疑問を感じていたから、
現状を維持するための手術を受ける前に、受けない選択も考えたし、生きる意味へと視点が向いた。
生きる意味があるのかは、後に書くように、深入りしなかったが、
手術を受けず、行けるところまで行けばいい、という想いに対しては、こんなことを思った。
料理に使う泥付きのニンジンから、芽が出そうになっていることがある。
切ったニンジンの上の部分を水につけておくと、小さな葉っぱに育っていく。
まっとうなニンジンの生き方ではないけれど、
伸びられる環境がある限り、伸びていく。
ふと、その姿が思い浮かんだ。
人間は考えることができるから、生きる意味だの先の見通しだの、あれこれ迷う。
けれど人間以前に生きものだと考えたら、生きていこうとするのは当然ではないか。
医療が人為だとしても、それも自然の一部分なのではないか。
そんなふうに感じられた。
もう土の上で根を張ることもできず、子孫を残すこともできないニンジンの芽。
不格好でも自身のやり方で生きている姿が、これからの私に重なって見えた。
世の中を眺めれば、経済優先で支援が得にくくなりそうな先行きや、
子どもという未来を生み出さなければという価値観が目につき、
私は社会的な価値が低い存在という思いにとらわれることもあるけれど、
周りがどうあれ、自分の芽を伸ばせばいいのだと。
育った芽をスープに入れて食べるつもりで、(小さくても匂いがよくて好き)
そう長くは生きられないニンジンに情けをかける私も残酷だと思いながら、
それが私に力を与えてくれてもいて。(ちょこっとだけど栄養にもなって)
あの時は、目に浮かんだ明るい色彩のニンジンの芽から、大きな力をもらった。
自分はなぜ生きているのだろう?
私も疑問の泥沼にどっぷりはまったけれど、もう足を洗った。
その疑問には、「意味があることがよい」とか
「意味がなくてはならない」という前提があることに気づき、
意味を問うこと自体が無意味に思えたから。
意味なんてない。意味なんて、いらない。
だって、今ここにいることが生きているということ、それですべて。
どんなに手を尽くしても救うことができない命があって、
救いの手を得られない命があって、
そのどちらでもなかっただけで。
この幸運がどれだけ大きいことか。
まるで宝くじ一等前後賞に何度か当たっているみたい。(私は3度手術したから、三回以上だ)
それは、何か見えない大きなものからの、あなたは今は そこにいなさいという指示ではないか。
どんな状況だとしても、「あなたは、その場所に役割があるのだよ、あの世にいくのは早いよ」と。
脳や神経や心臓や肝臓や腎臓や胃や、その他いろいろな身体のすべてが
内部に多少支障があっても、外から危険が迫っても、その人を生かそうと動いている。
丈夫な人も、丈夫でなくても、持っている力と機能で、なんとか上手くいくよう働いている
(時々間違って暴走することもあるけれど)。
その働きを、本人が認めないでどうするというの。
当たり前すぎて、忘れていることだけれど、きちんと見てあげよう。
それは、他の人が代わることはできないのだから。
私の身は私が活かすしかないのだから。
■先天性心疾患があるということは
健康な人の身体が自動車だとしたら、 先天性心疾患の人の身体は、バイク。 四輪で周りを囲まれた、安定安全な乗り物を運転するのと、 地面の凸凹や風雨を感じ、バランスをとりながら運転するのと、 その違い。
道路を走るということは同じだけれど、 高速道路は大型二輪でないと走れない。 大型は、免許にしてもバイク自体も手にするのは難しい。 だから、昔のような、のんびりした時代ならいいけれど、 高速を走ることが当たり前の世の中をゆくのは、少々きついときがある。
雨風の時は走りづらいし、自動車が感じない凹凸にも気を使う。 当たり前に気づかずこなしているかもしれないけれど、 運転技術が必要で、上級技術を持っているから毎日を過ごせている。
少しの不調も大事につながるから、定期点検も欠かせない。 だから、専門の先生のところへ通うんだ。 ガタがこないよう、上手く使いこなせるよう、長持ちするよう、 学ぶことも必要になるんだ。
自動車のような安全性はないけれど、 二輪であることは、不利なだけではないはずだ。 与えられたからには、乗りこなす力はきっと備わっている。
大型に乗れるなら、堂々といけばよい。 普通ならば、風を感じながらいけばよい。 原付なら、軽く街中をいけばよい。
自動車に邪険にされたら、怒ってもいいのだよ。 |
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