世の中に様々な動きがあるけれど。
今年の障害者週間のキャンペーン(ペパーミントウェーブ)。
障害を測るものさしが、海外ではラグビー場を一周歩けるか、というような、
生活行動能力であらわされる場合が少なくないという。
そういった不自由さから、お互い支え合うには何ができるか考え、
できることから行動していこうという呼びかけだった。
そう、障害者だからではなくて、できる手立てがないからつらいんだ。
[参考→]
そんな考え方がほんの少しだけど進んでいる。
お互い様を広げていきたいね。
障害のある人に理解を広げ、差別をなくすための条例が
千葉県で、もうすぐできそう。
その条例での障害は、障害者手帳があることではなくて、
病気や体の変調、傷害があって、
その時々の社会環境で求められる能力や機能が不足していること。
そして、差別があったら、解決のために助言、あっせんをしようというもの。
きちんとそういうことが規定されているんだね。
きまりをつくっただけでは、なかなか変わらないかもしれないけれど、
変わるきっかけにはなるはず。
それは、ひとりひとり、というより自分自身にかかっている。
命の大切さを言うのなら、あなたが大切と言ってほしい。
公共広告機構のコピーに大きくうなづく。
どんなに厳しい世の中になったとしても、
目の前の生命を大切に思うことはできるはずだから。
ひとに頼るのではなく、思いを切り捨てるのではなく、
せっかく同じ月日を重ねているのだから、一緒に生きていくことを考えていきたい。
不都合なシステムを押しつける力を放っておかない流れも大事だから、
人任せにせず、アンテナを張って、育てていきたい。
本物のケアは、マニュアルにならないもの。
同じ状況でも、それぞれの人で要望は違うものだから。
周りがどんなことばをかけても、
どんなに思いやりを尽くしても、
本人が快く思わなければ、納得しなければ、何もならない。
だから、その人を良く知る人が思いを汲むことが、
その人に関わる人が気持ちをこめて接することが、
大切な働きかけになるのかもしれない。
ふと思う。納得できないから、迷いから逃れられないから、
楽になりたくて、心のケアを求めるのではと。
だけど、つらさを感じずに楽になろうと望んでいないだろうか。
それはあり得ないものを追うことではないか。
自分がやりたいことをやる時でも、その過程で苦労はあるのだから。
まず、安心できる場がなければいけないけれど、
自分を甘やかす心のケアよりも、
自分を生かす力を得ることが、本当は必要なんだ。
それには、痛い思いをするかもしれないけれど、
そこから大きな一歩を踏み出すきっかけができるかもしれないね。
障害のある人の支援の制度が、突然大きく変更された。
支援の量に応じて、費用を支払うのが原則になり、
重症の人ほど、日常生活の困難な人ほど、金銭的負担が大きくなる制度。
お金を稼げる人しか要らない、と切り捨てられたような、悔しさ。
そもそもが国の見込み違いから起きた財源不足を理由に、
知らさずに、説明もおろそかに、ずさんなやりとりだけで決め、
さも障害者のため、これがいいといわんばかりに伝える。
馬鹿にされた怒りがおさまらない。
金銭的なことだけをみれば、助けられてばかり。
だけど、生きるという営みを、稼げる人が偉いという価値基準だけ判断していいのか。
一つのシステムを採り入れると、合わない人は必ず出るから、
それを掬うために、福祉制度があるのではないか。
福祉制度を大多数が遵っている経済のシステムの中に放り込んだら、
落ちこぼれがでて、もうそれは福祉ではない。
みんなが生きていかれるような方策をつくることが福祉ではないのだろうか。
ただ、障害のある人の主張、生きる権利ということばは、どうしても馴染めない。
強すぎる思いに、私も退いてしまう。
障害があるから助けが必要、当たり前でしょうといわれたら、
支える人(健常者)には重荷になる。
障害のある人とない人の間のカベが際立ってしまう。
障害者という前に、一人の人。
私はこうしたいけれどできないの、私は必要な医療を受けたいていきたいの、
そう訴えた方が、手を差し伸べやすいのではないだろうか。
今までの制度は、親や他の障害の人が築き上げてきたものが大部分。
何もないところから築き上げた人たちの力が、当たり前の安心になった。
周囲の状況が厳しくなり、自分で動く時期に来たのだと思う。
出かけるパワーがなくて。障害がわかりにくいものだから。
日常が大変だから。それでもできることはあるはず。
誰かやってほしい、わかってほしい。それは、甘え。
健康な人も、健康を損なわずに生活を保つことが難しくなっている。
自分が満足いく生活をするために、努力している人がたくさんいる。
だから、自分に必要なものを、得るための努力をしていたい。
小学生で心臓移植をして数年して亡くなった方の記事があった。
生きていくことのつらさの方を感じることが多かったようで、
再移植のために動いたご家族も迷われたようだし、
亡くなった彼のことばは、身につまされる内容だった。
生きてほしいと願うとき、生きることのすばらしさを強調したくなる。
でも、すばらしさとともに、つらさも一緒についてくるもの。
特に移植は、服薬や体調維持の制約が続くと同時に、
今の生命が、直接他人の犠牲と結びついているものだから、
それを受け入れられるかどうか、が大事になってくる。
子どもの手術では、決断をした親が教えないといけないと思う。
けれど、そこまで覚悟して行われているだろうか。
今までいいことばかり記事になっていたようだけれど、
迷いもつらさも出るようになってきたのは、いいことだと思う。
難病が治療でよくなったというTV番組などでも、
たいていは、治ってよかったとなりがちだけど、
本当に大変なのは、それから長く続く病気とともに生きる日々。
その日々が平穏であるように、
そして、いくらか違いはあってもその日々を過ごす人も多いのだから、
その知恵が生きるようになればと願う。
わかってほしいと願うとき、こちらのことばかり考えてはいないだろうか。
例えば相手が健康だから、助けることができるはずだ、当たり前だ、と。
でも、健康な人だって、疲れている時もあるし、
いろいろな事情を抱えて余裕がないことだってある。
病気だから何々ができないと思われると困るのと同じくらい、
健康だからできると思われても困るのではないか。
病気というレッテルみたいに、健康というレッテルを貼るようなもので。
理解してほしいと思うことがあるとき、
相手から歩み寄ってもらわないとできないこともあるけれど、
こちらも行かれるところまで行ったなら、その分だけ、
案外早く距離が縮まるかもしれないね。
病気で過ごす大変さは、いろいろとあるけれど、
解決というか、どうしたらラクになるかは、折り合えるかなのかもしれない。
したいことがある時。
後で疲れ切って動けなくなるのでは、休養時間を確保できるか、
でもやりたい、しなければ後悔するかも。
そんな場面が、きっと健康な人よりずっと多くて、
その度に迷い、覚悟してやるか、残念だけど断念するか、
気持ちに折り合いをつけてゆく。
具合の悪い時。
食事をしなくては、かたづけなくては、
日常のことも大変、しなくちゃならないこともある。
間に合わせのことばかりしていると、気持ちも荒んでくる。
そこをどうにかして、自分を納得させている。
人生の大きな選択。
これは、病気の有無に関係なく、迷うものだけど、
病気の制約も大きいものだし、力任せに進めないものだから、
周囲のことも考えつつ、じっくりしっかり選んでいく。
何気なく過ごしているようでも、危ういバランスをうまくとっていて、
実は健康な人よりもたくさん、知恵を働かせたりしているのだから、
ただ、そこにいるだけでも、立派なのかもしれないね。
手術を受ける、結婚する、子どもを産む、体調が悪い時の対処…。
病気があると、健康な人より、決断の数も重さも多くなる。
だからといって、決断しなれるなんてことは決してなくて。
その分、一生の中で悩んでいる時間が長くなっているかも。
決断し、すっきりさっぱりできることなんて、そうはなくて、
最後には、自分がどうしたいかだったり、
成り行きにせよ、思う方、信じる方に傾く、
ただそれだけのことでしかないのかもしれない。
そう、例えば、赤にするか、青にするかの真ん中で悩んでいる時。
元気が出るけど疲れる赤と、落ちつくけど冷え冷えする青と、
それぞれの長所と短所が比べられなかったら。
こちらにいた方がラクと思うほうに行くか、
そちらを信じようと思うほうへ足を踏み入れているのだろう。
信じようと思った時、ポジティブな部分を力にできるのだと。
それが赤だったら、疲れるではなく、元気が出てパワーがわくと、
青であったなら、寒々するではなく、落ちついてホッとできると。
だから、信じるというそのことも、力になるのだと、そう思う。
心理療法家の言葉を思い出す。
大きく変わるように見えることでも、49対51の勝負の場合が多いのだと。
0対1に見えるのは、水面下の部分がわからないだけのことで。
どちらかに少し傾くだけでも、大きく変わっていくものだとしたら、
信じるということは、ささやかだけれど、とても大きな力。
それを味方につけていたい。
(だいぶ前に書いたまま忘れていた文です)