2004年雑記
最終更新日:2004/12/31
                
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選択

探せばいろいろな情報を知ることができる。
どれかが明らかにいいなら、文句なく選べるけれど
いいことも悪いことも、選択するのは本人だからと説明をされる。
けれど、選びとるには、力が必要。
よりよいものをと追求すれば、キリなく迷い、探す労力もいる。
余裕がない中なら、相手の意図に思わず知らず依りかかっている。
だから、選択が本当にいいものかどうかは、わからない。
ただ、悩んで、求めていったときには
迷っていても自分なりの方向は出ているような気がする。
それを支持してもらいたいためだけに、決めかねるのかもしれない。

誰でもさまざまなことを気づかずに選択しているものだけど、
病気によって、些細なことまで意識してやることになるし、
健康であれば必要ないことがらも起こり、多くの選択を求められる。
それが重荷になって、時に放り出したくなるけれど、仕方ないね。
迷ったり揺れたりしながら、自分の位置どりを決められたらいいな。
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受容

障害や病気の受容というと、それがいいことと思われている。
でも、受容できていないといけないのだろうか。
病状が悪化していき、できないことが増えてゆくとき、
その度ごとに自分の限界を知り対処することになる。
受け容れるまでに、またできないことが現れることもあるだろう。
障害や病気を認めているからといって、
限界点が下がって、全く動じずにいられるわけでもないだろう。
そうすると、一体どうすれば受容したことになるのだろうか。
受容は、固定した状態やある一時期だけを想定したもの、
生きて動いている状況の中ではうまく使えないのではないか。
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そんな疑問をもっていたら、受容には自己受容と社会受容があると知った。
例えば、会社勤めをしたいけれど体力的に難しいという時に、
会社勤め以外の仕事や、働かずに暮す方向でその人が納得するのと、
短時間勤務の働き方が認められるということの違い。
人の側、社会の側、どちらから歩み寄ってもいいのに、
人の側の受容ばかりが言われるようになったらしい。

楽になるのなら、自分を受容していけばいい。
でも、受容しなくてはと思うと重荷にもなる。
自分はできていないと責めたりするくらいなら、
受容なんていう外からの言葉よりも、
悩みつつもがんばっている今の自分を大切にしよう。
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ことば

医療関係の人からすると、患者。
福祉制度を受ける時は、障害者。
特殊教育関係の人は、病気療養青年。
それぞれがハンデのある私のことを考えているのだけれど、
同じ私も立場によって、こんなふうに違う言い方をされるらしい。
そして、私からはどれも今一つピンとこない。

子どもの頃から病気を抱える中高生のため
社会的自立を支援するハンドブックまとめようという話しを知り、
経験や感想を話す機会があった。
そこで感じたのは、当事者の感覚とのずれ。
呼ばれ方もそうだし、将来のことで悩んでいる時に
その悩みが、社会的自立ということばと結びつくかどうか。
ピンとこなければ、見えるところにあっても手に取らないし、
めくっても読まれないままかもしれない。
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外から何かしてくれるのを待つことが多いけれど、
何をほしいか、ほしかったかを
自分たちのことばで言うことも、必要かもしれない。
外からの呼び名や、外から考えられた方策よりも、
何を求めているのかを表しながら、立場を築いていかれたら。
今は探していけば、耳を傾けてくれるものがある。
味方をつくり、力にするために、表現していくしかない。
30代の今ならば、10代20代の時は気づかなかったことでも、
思い返してこういう気持ちだったのかと思うことがある。
そういう経験を活かすのも、表現してこそできること。
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治療

先天性疾患で手術を受けた人は、
生まれたままの身体でいることのできなかったかなしさを秘めていると思う。
でもそれは、病気が、身体が、"悪い"から、修復したのではなくて、
そのままでは生きていくことが難しいから、治療をしたのだ。
…治すは、治めるということ。
友人の言葉に、ハッとする。
そうだ、生き易いように治めることだったんだね。
そう思うと、医療だけが治す方法ではないかもしれないね。

自分の一部である病気が悪いと思うと、自分も悪いと思えてくる。
でも、よい悪いの判断をおいてみよう。
病気の苦労が少なければ、周りの人との葛藤がなくなっていけば、
病気にこだわる気持ちも減っていくものだから。
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トラウマ

つらい入院、痛い治療は、心の傷になるかもしれない。
でも、痛い思いを感じていなければ、トラウマとはいえない。
トラウマになるかどうかは、出来事の大きさ・強さではなくて、
受け取った人の主観的な感覚に左右されるというのだから、
同じことをされても、つらい人と大したことではないと感じる人、さまざまなように、
感じ方は人それぞれのもの。
ならば、手術や注射が続くなど、とてもつらい経験であったとしても、
それが必要なことだと納得できたなら、その人の心の重荷にはならないはず。

大きな手術や難しい治療は、どんな人にとっても大きな打撃になる。
よい結果だったしても、打撃には変わりない。
けれど、つらくても、しなければならないのは、
よくなってほしい、楽になってほしいとの願い、
生きていてほしい、そこにいてほしいという、周りからの強い思いがあるから。
あなたが大事だから、こういう方法をとったのだ、
判断したり、関わった人たちも痛かった、つらかったのだと
きちんと伝わったなら、心の痛みだって和らぐ。
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本当はもっとよくなっていたはずなのにと、
医療や医師へ大きすぎる無理な期待をかけて
入院中や治療のことを語る家族がいた私は、
生きていてほしいという思いが、気持ちからかき消された。
よくなることが当たり前だとも思えてきて、
無事でいられたことへの感謝の気持ちもどこか薄れていた。
そんなでは、期待より悪いことが起これば、
あってはならないこと、傷つけられたことになってしまう。
努力をして結果が出なければ、治療した側だってつらい。
仮に悪いことは患者のせいにする風潮があったとしても、
その患者のことで心を痛めている人はいるはず、
患者と同じようにつらいのではないだろうか。
仕事とはいえ、やりきれない思いを抱えることの多い
治療に携わる人たちの気持ちが感じられたなら、
トラウマになるなんて、甘えでしかない。

たとえもし、トラウマになったとしても。(そんなことも起きてしまうけれど)
マイナスをプラスに変えることはできるはず。
マイナス×マイナス=プラスになるのだから。
そう思い続けて行動していったなら、きっと、決して悪いことにはならない。
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不整脈

先天性心臓病の大人は、不整脈のある人が多いみたい。
私もその例に漏れず、そして私の病名ならたいていあるものらしく。
考えてみたら当たり前かもしれないね。
かたちの違うポンプを人並みに動けって使っていたら疲れてしまう、
心臓は休めないんだから。
いっぱいいっぱいなのに、まだ仕事させるのって、人なら愚痴るけれど、
その代わりに気づいてよぉと、存在を主張していたりするのかも。
薬を飲んではいても、抑えきれない時があって、
なら飲まなくてもいいじゃないかと思うこともあった。
だから、飲まなければ悪くなることを確めた、
医師の言葉とともに、自分で納得することも捜して、
無茶をしないバロメーターにしながら、一緒にやっていくしかないと。

たまに脈が早めだったり乱れていたり。胸の不快感があったり。
でも、特に悪いことはなさそうだから、いいか。
悲鳴のような、早鐘ほどの拍動が続くことさえなければ。
不安もあるけれど、愚痴を宥めるように、言い聞かせる。
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患者会

心臓病の人は、たいてい心臓病の患者会に入っている、
そんな先入観がけっこう大きいのかもしれないと感じることがあった。
私はたまたま、親が入っていたから、会員だけれど、
きっかけがなければ、関わりのないまま来てしまったかもしれないし、
子どもに勧めない、あまり関わりを持たせたくないという親がいるという、
その気持ちも、この頃では、なんとはなしに理解できるようになった。
だからなんだろうな、いろいろな場があって、必要と思った時に関わればいい、
全国規模の患者会とは別に、*ささやかな場をもとう、と思ったのは。

昔、患児の親の会の役目で母が外からの連絡を受けていた時、
いろいろな考えや状況があるのだと知った。
帯封だけの剥き出しの状態で送っている会報を、
病気のことがわからないように送ってほしいという意見。
周囲に知られたくないという思いは、本人の気持ちだけではなくて、
周囲の人との対応が負担になったりすることもあるだろうけれど。
そうして、病気を、言わない方がいいもの、として大きくなった人、
会などに思いが及ばずに、困難を自分の力で乗り越えてきた人、
その人たちが積極的に患者の会に関わろうとするだろうか。
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小学生で手術を受けた女の子に、女の人は誰でも経験すること、と説明したという母親。
会には関わりたくないけれど、相談会の話しは聴きたい、と。
そうあるとは思えない、一番極端な話しだろうけれど、
実際にそんなことに出会ったことも、ささやかな会への思いにつながっている。
ともに生きていかなくてはならない病気を、知らされないこと、
親からウソを教えられたこと、それがどんなに彼女の力を奪うことか。
その子がその子であることを、身近な人にも認めてもらえないようでは、
病気というマイナスの価値のつきまとう自分自身のことを認められるまで、
気の遠くなるような大変な思いをするのでは。
そんな体験をしているのは、彼女だけだろうか。

患者同士でなくても、医療関係者でなくても、友人でも、誰でもいい。
その人を、病気も含めて受け入れる人が、身近にいたなら。
そういう関係があれば、何も患者同士や、医療に期待しなくてもいいのでは、
そんなふうに思いながら、でも、そんな関係をつくるのが難しいから、
病気があってもいいんだよという場所を持ちつづけていたい。

*ハートの守 -心疾患女性の会- (http://www.geocities.jp/heartnomori/)
2004年5月1日に集まりを開きます。詳細は、上記アドレスのトピックスへ。
多くの方にお会いできたらうれしいです。
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不自由

電車などの優先席で、体の不自由な方に席を譲ってください、というけれど、
体が不自由って、よく考えると、わかりづらい言葉だね。
病気も、体が不自由といえるとは思う。けれど、何か引っかかる。
何が、どこが、不自由なの? …
それがとっさに言えないからかもしれないけれど。
そう考えると、障害という言葉に感じるものと似ているね。
何が、障害? 何が、大変さ?
疲れている、大変なの、という人に、譲ることでラクになるねと思うなら、
こんな言葉なんかいらないはずなんだ。
体が不自由な人だって、いつもいつも援助が必要なわけではないのだから。
健康でも、介護に明け暮れていたり、重い荷を抱えている人もいるのだから。
感じている人のためのことば(譲ってください、座りますか?)は必要だけれど、
そうではないところからの言葉が、多すぎる。
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知識

知識があるからいいとばかりはいえないけれど。
放送大学で得た知識を、ちょっと振りかえってみる。

チアノーゼ

血液の赤さは、ヘモグロビンがあるから。
酸素と結びついたヘモグロビンは赤いが、酸素が離れると暗赤色。
暗赤色のヘモグロビンが血液中に5g/dl以上増えると、チアノーゼが現れる。
総量の問題なので、貧血だと出にくく、多血だと酸素は足りていても現れやすい。
酸素濃度が低ければ、酸素の離れたヘモグロビンが多くなるし、
末梢血流の滞りや拡張があると、末梢の血流が増えて、そこで赤血球が増加して現れやすくなるという。
心不全も末梢の血流が滞るので、現れやすくなる。
動脈血に静脈血の混じるタイプの心臓病なら、当然現れるものだけど、
病気の重さとチアノーゼの強さは一致しないと感じていた。
それが、他のいろいろな要素からだと知った。
(ちなみに、単純に静脈血と動脈血が混ざる状態だけでは、チアノーゼは出ない。
一般には動脈の血流=左心系の圧力がかなり高いので、静脈側へ流れるのみ)
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バチ指

なぜバチ状になるかは、わからないけれど、指先の血流と関係があって。
お風呂で指がしわになるのは、ふやけるからではなく、
指先には動脈と静脈をつなぐ連絡枝がたくさんあって、
血液を溜めたり、血流の増減を速やかにできるしくみとなっているから。
細かい運動での血液量の調整に対応できるようになっているらしい。
血流の変化が影響しやすい場所と考えれば、目に見える変化が起こることも納得できる。

先天性疾患の現れる割合

とっさに資料が見つからないのだけれど、10年ほど前の教材で、
先天性疾患の子どもが生まれる割合は、ここ30年ほど殆ど変化なし、
そんなグラフを見て、化学物質や公害などの環境の変化とは関係なく、
病気はある程度の割合で、確実にあるものなのだと感じた。
自然からして、病気は必要なのかもしれない、
だから悪かどうかはわからないと考えるベースになった。
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心理学

* カウンセリング
手ほどきを受けても、本人に余裕がないと生かすのは難しい。
実際に先生と過ごす機会が少なすぎるので、力を得るには不足。
では、どこかで受けるなり学ぶなりできないかと問うたこともあるが、
適切な答えはなかなかなく…、見つけられない。残念。
* 社会的少数者
レッテルが貼られたり、なかなか理解されづらい状況が生まれやすいこと、
それは、少数者の側の要素と、周囲の側の要素と、双方がからんでいる。
そんな社会心理学の実験の結果を聞くだに嘆息。(気が向いたら詳しく書きます)
知識があっても、どうしようもないという見本みたいだね。
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