暮らしが変わると、体調も変わる。
寒い時期に調子が落ちるとは、考えていなかった。
無垢の木の床、冬でも寒くないように設計した浴室。
そんな家にいたせいか、暑い時期より冬の方が調子がよかったけれど。
今は、台所の油や液体石鹸が固まる寒さ。
何となく以前と違うと思ったら、以前より寒い中で暮らしていることも要因らしい。
ふだん家にいて時々出かけていた頃、
たまに出たついでとばかりはりきってしまうのか、翌日はぐったりしていた。
そして、身体からのブレーキは脳貧血になることだった。
毎日出かける今、いつもすっきりしない感覚を持ちながらも、ずっと脳貧血は起きていない。
頻脈という症状に置き換わったようだ。
絶好調!言える時が減ったことは少しかなしいけれど、どちらがいいとはいえない。
知らず知らずそれなりに体力はついているようだから。
冷暖房があるから、楽。それはそうなのだけど。
それなりに温度設定がされていても、部屋の外は違う。
ずっと部屋の中にいるわけにはいかないものだから。
私の場合、
寒い外から暖房の部屋へ入る方が、暖まった部屋の外へ行くより、こたえる。
冷房からむっとした外へ行くのもその逆も、負担にはなるようだけれど。
子供の頃、風呂の冷たい洗い場から湯の中に入るのが大嫌いだったっけ。
今でも熱い湯は、苦手。ぬるめにゆっくりが基本だ。
(肩まで湯に浸かるのも、水圧の影響があるようだ)
自分がそこそこ動ける身体で、環境にも恵まれていること、ありがたいと思う。
その気持ちが強すぎて、前へ進むことができない時もある。
健康な友人が、自分はどうして健康なんだろうと言っていたことがあった。
動けない人を見ると、申し訳なくなる気持ち、私にもよくわかる。
私が動けないことが偶然であるように、
その人が動けることも偶然なのだから、
比較なんかしないで、それぞれの中で精一杯やっていけばいいじゃないか。
動けないのは制約となるけれど、動かなくていいと考えることもできて、
動けると、様々なことを選択していかなければならなくて、
どちらもかたちは違う、大変さがあるのだから。
恵まれている、と思う時、その状態でいいと思うと守りになる。
自分のバランスを崩さないようにしながら、
恵まれているからこそやるべきことを、捜していたい。
本を読んで知ったこと。
わかりにくい障害がある。(日本では障害者手帳の対象にならない場合も多そうだ)
障害とはいえないが、苦労する性質を持った人たちがいる。
そのなかに、似ていると思えるものがある。
●ADD(注意欠陥障害)
やらなくてはいけない様々な事柄に圧倒されて、不安と戦っている。
頭の中の情報処理がうまくいかなくて起こる症状で、日常に不自由している。
もちろん、人間関係にも苦労する。
片づけられない女たち(サリ・ソルデン著/ニキ・リンコ訳 WAVE出版)でその障害のことを知った。
そしてこの本は、プロのセラピストでありこの障害を持つ著者が、社会の中でよりよく生きるにはどうしたらいいか書いている。
●HSP(非常にセンシティブな人=Highly Sensitive Person)
敏感な人が、一定の割合(およそ20%)いて、そうでない人の間に、かなりの違いがある。
どうやら私も少数派のそのグループに属するようだ。
ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。(エレイン・N・アーロン著/冨田香里訳 講談社)は、敏感なために神経質・引っ込み思案といったネガティブなレッテルを貼られることの多い人たちへ、きちんと自身のことを捉え、自信を持って社会に出るための助けになる本。
周囲に合わせて過負荷になりやすくて、ちょっとしたことに鋭敏になってしまう上、
経験不足も加わり、人との距離をうまくとれず、行動が噛み合わないことが多い。
どちらの本も、ものの捉えかたを教示してあり、参考になった。
注:人間関係がうまくいかないのは、素質や環境もかなり関わっています。心臓病者みながそうだと考えないでください。
それで行動を変えられればいいのだが、なかなか…。
障害のあるなしに関わらず、人間、重なるところは誰にでもあると思うけれど、
いろいろな状況を重ね合わせることで、より自分の性質が理解できるように思う。
考えるきっかけをくれたのは、心臓病。
よくも悪くも影響のあるこのことから、様々なことを考えるのが、生活の一部。
健康のありがたさがわかるでしょうと言われたことがある。
私はずっとこの身体。健康だったことがありません。
だから、わからない。本当に、わからない。比較できない。
手術をして楽になったということは、言えるかもしれません。
身軽に動けて、重いものを苦もなく運べる人の姿に、違いは感じます。
楽だろうなと思うことはありますが、何よりもこの身体に馴染んでいる自分がいます。
健康な方の方が、健康が、ありがたいのではないですか?
どうして私に言ったのでしょう??
横にいた私を例に、健康でいることをありがたいと思わないといけないと子どもに言うのをきいた。
どうして、比較されてしまうのか、不思議だった。
比較して、下に置かれた私の立場を考えてみてほしい。
その子だって、比べられて、外から言われたくはないだろう。
健康がありがたいものなのか、病気はつらいことなのか、
それは、それぞれの人が、自分で考えたり感じたりするものではないだろうか。
医療に関しての話しに、患者の視点がいかに欠けているかを感じる。
そんな話題に出会ったので、じっくり考えてみた。→☆
私の病名(三尖弁閉鎖症)を検索したら、手塚治の作品に行き当たった。
どんなふうに描かれているだろう、と読んでみた。
ストーリーの中では、患者も手術もはっきりいってツマでしかない。
でも、医師でもある手塚。
閉じている三尖弁の絵、2歳の患者に人工弁の手術という選択。
閉じている弁を切り開いて人工弁を入れるのは、あり得ないけれど。
そこは症例の少なかった病気、'78年に描かれた事を思えば、仕方がないことだろう。
しかし、突っ込みたくなった。20年前に2歳用の弁がよく手に入ったな〜、
数年後の再手術はどうするんだ〜、いくら外科医だからって…。
つい、妙なところを見てしまう。困った(苦笑)。
アイゼンメンゲル症候群の子に、肺移植ができるまでのつなぎに
母親の肺で血液を浄化しようと、親と合体させる手術があったり、
アイデアはいいが無茶な設定も多々ある。
でも、訴えかけるストーリーが根底にあるために、そちらをじっくり見て納得する。
読むのに気合も必要で、疲れるけれど。
用事がある時くらいしか、なかなか話しかけられなくて、
自分は人付き合いが嫌いだと思っていた小学生の頃。
いろいろな人と付き合っていかれる方がいいと教えられていたせいか、
それを積極的にしようと思わない自分を責めていた。
でも、なんでこんなに悩むんだろう、とある時考えた。
人に合わせられない、思い通りに対応できない自分がもどかしくて
それでおっくうになっていて、人が嫌いなわけではないのでは、
やりたくても、うまくできないから、悩むんだ、
そう思ったとき、気持ちがずいぶん軽くなっていた。
私の経験不足のせいも、確かにあるけれど、
きっと周りの人たちも、健康な人とは対応を変えていたはず。
健康な人なら、周りと同じにできるし、変だったら指摘されるだろうけど、
自分の体調を維持するために、人と同じことをしていてはいけなくて、
自分なりに、の範囲をどうとっていいかわからなくて、
本当はできるし、必要なことまでしないできてしまうこともあったはずで、
周囲もそれをきちんと指摘できなかったのかもしれない。
気遣いという壁をお互いに築いてしまって、
それを越えられなくなっていることもあるだろう。
気遣いされることで、ごく普通の付き合いとは違った対応が必要になってくる。
その時にどうしたら、ということは、参考にできることは殆どない。
普通以上に付き合いに能力が要求されているのではないだろうか。
そう考えると、私も努力しないといけないけれど、
それだけでは、足りないこともあるのでは、と思う。
今でも話しができなくて、損しているのは、自分。
そのことで迷惑をかけ、悩み、時に疲れながら、そこにいることを選んでいる。
そして、気にかけながらも、どうしていいかわからない人が、多分幾人か。
至らない私だけど、至る人になりたくて、そこにいることを、
その人たちに伝えることができたら。
今年の重大ニュース
1.はじめて会社にフル出場!
…昨年はケガ、一昨年は勤めはじめてすぐに大事件、と、なにかと落着かなかったのですが、今年は無事。
思えば6年ほど前の親の手術から後、何やかやとありましたが、家族も無事でした。ほっとしました。
…考えてみたら、久しぶりでした。神戸、そして他にも行きたいところがあって、また出かけたいです。
…そうなんです。年賀状の枚数が増えました。