医・人・命

update 2001年

心臓外科の歴史から医療倫理を考える記事が新聞に掲載されていた。
患者として読む私には、様々な思いが浮かぶものであった。
それをきっかけに感じたこと、考えたことを記したい。

[←もどる] 痛み 生きる  (つづく)… 記事

失敗、犠牲なんて言わないでほしい

最も強く感じたことは、導入部での記者の言葉「心臓外科は目覚しい発展を遂げたが、その陰で多くの患者が手術の失敗で亡くなっている」に対し、手術で亡くなることは手術の失敗なのか、そして、それを犠牲と言っていいものなのか、という疑問だった。
手術の失敗というと医療の手落ちや限界のように感じるが、手術をするのは、このままでは死を待っているという状態だろう。手術をしたがために亡くなったのかどうかは、わからない。そして、人は一度は死ぬもの、死ななければならないもの。病気があると、それが原因と考えられてしまう。死から目を背けるあまり、死はいけないことになり、医療に期待をしすぎてはいないだろうか。

痛み

同様の手術をして亡くなった方のことをきくと、心が痛む。
でも、考えてみてほしい。健康で医者にかかることなどめったにないという人でも、医療の恩恵は受けている。予防注射で感染症にかからずに済んでいたり、服薬で症状が軽く済んでいたり。予防注射が原因で命を落とす人もいた、薬の安全性を調べるために動物実験がされた、その死があったから、健康でいられるのではないだろうか。
そう考えた時、同じように手術をし、亡くなった方に心が痛むのは、他の人がふだん気づかないことに気づいたということだ。
いろいろな意味で繋がっている人や物事。そのことに気付くきっかけをもらったということではないだろうか。

同じように手術を受けたという共通項があるものが、かたや亡くなり、かたや生きているのはなぜだろうかと疑問にとらわれる。生きていることが重く感じられることもある。同じように手術を受けても、その人と自分は身体も状況も違うはず、どうして同じと感じてしまうのだろう。考えてみれば不思議なことだ。

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死を生かすために

亡くなった人の命を生かす方法が、あると思う。
手術を受けた自分が生き続けることもそのひとつ。(そう考えると、重たい)
それよりもっと力になるのは、医者がその経験を、同様の病気を持つ人へ生かすことだろう。
患者が生きつづけるのは、その人一人分しかできないことだが、経験を生かすことは、たくさんの人の力になる。
患者であることは自分で選べないが、医者は自分で仕事を選んだのだ。
そうやって、未来につなぐことで、死は犠牲ではなくなるはず。
医師こそ命を生かしてほしいし、それができないなら辞めてほしい。患者はやめることができないけれど。

生きる

手術が成功し、患者が退院する。そこで終わりなのではなくて、新たな始まりだ。
通院、服薬や、日常の制限がある場合も多い。健康な人と全く同じに過ごせるのでなければ、制約が時に負担になったり、不安を多く感じることになったりするだろう。
手術をしたことがいいことがどうかを問うのは、病院から後の暮らしも含めて考えていくべきではないか。
制約を辛さと感じるかどうかは、置かれている環境やその人の感覚によっても違うが、それが評価されないことに、疑問を感じる。

話しは逸れるが、病気の原因は遺伝とか、自分が悪いと感じる親がいることに対して、思うことがある。
遺伝だったとしても、親がいけないというのは、違うと思う。
だって、親を責めるなら、そのまた親から先祖代々遺伝子は繋がってきたのだから。
自分が悪かったと思っているお母さん、お父さん、ご自分の親や祖父母も責めるのですか。
もし、妊娠中の出来事が原因だったとしても、生まれるまでの間に流れたり亡くなったりする命もあるのだから、この世に辿りついた事はすごいことではないですか。
せっかくここまで辿りついたのだから 、生きたがっているんです。縁があったのです。応援してください。

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