介護保険がスタートしたが、要介護認定はどうやって判断するのか疑問だ。
痴呆の方の介護度が上がらないときいたが、一人暮らしの方の介護度も低くなるらしい。
時間がとてもかかる。でも、やればできる…。
そうすると、自分でできることになり、介護の手が必要なしとされるのだと。
よって、独居老人は介護保険の網の目から落ちてしまうのだと。
同じようなことが、私たちにも言えるような気がした。
やればできる。でも、辛い。外見からはわからない。
本当は、辛ければ、補うものを求めてもいいのだろうけれど。
要介護度は、施設にいる方を対象にした尺度で、在宅の生活が反映されないという。
だから、在宅の人達に不利にならない認定の仕方や、サービスメニュー作りが提案されている。
まったく同じことが、一人暮しの病人にも言えると思う。
こんな指摘があった。
施設(病院も同じだと思う)なら、食事は、目の前に用意されたものを食べることだが、
一人暮しでは、買い物・調理・洗い物・後片付け、とこれだけのことが必要になる。
自炊しないにしても、食べに出かける、または、買って・ゴミを出す。
手抜きをしないとならない状態になれば、健康状態がますます悪化し、悪循環。
自立支援のサービスをつくり充実させれば、
まだまだ在宅で生活を続けられ、病院入院や施設入所のコストより安くつくはず、と。
老人も持病のある方も、障害者も、同じではないだろうか。
生活は人それぞれ。そして、立ち入りにくい。だから見えてこないのだけれど、
大変な暮らしをしている方が多いのではないだろうか。
その人達が力になるものを、作れたらいいのだけれど。
週末は、休日の用事。実家や遊びに出かけたり。
週一日はしっかり家にいないと、さすがに疲れが溜まる。
家にいると、マイペースで過ごせることが、何よりもいいけれど、
散らかった部屋が気になるし、家事をしなければと思う。
本当に「休み」にはなっていないかも…。
「あなたの思うとおりにやっていいですよ」
そう言われた時、不安になることが多い。
体調は他人にはわからないから、思うとおりに動くしかなくて、
その言葉を受け取ることが多くて。
周りを参考にできることが少なくて、自分に自信がなくて惑う。
そんな自分の小ささかとも思っていたけれど。
任せるよ、と信頼されていることは、よくわかる。
けれど、それだけで、フォローがないからかもしれない。
自由にさせていただきます、だから意見は遠慮なく伝えてください。
そうでないと、間を繋ぐものがないのです。
言いっぱなしは、自分は関係ないよと言っているとも受け取れます。
だから心配になるのだと思います。
フォローを求めるのは、甘えでしょうか?
ドラマで心臓病のヒロインが描かれていた。
見ると、違和感を感じる。これが、知らない人がかぶせる心臓病者のイメージなのだろう。
ドラマはつくりごとと思うけれど、作成者の意図が反映されている。
そして、見る方が受け入れるから、話題になるのだろう。
感じた違和感を作成して放送する側に伝えることはなかなかできないけれど、
せめてそれをかたちにする場を作ってみた。[ドラマだからといわないで→]
ドキュメンタリーも、制作する側の意図で素材が生きる場合も逆の場合もある。
先入観から、当事者からするとでっちあげに近いものに思えることもある。
ドラマも同じ。今回見ているドラマは、でっちあげに近いものに思えた。
掲示板を作ったのは、自閉症者のドラマで、同じようなことがあったから。
手記を読んだことがあるので、描き方に違和感を感じて、当事者の言葉を捜した。
見つけた掲示板の書き込みに、共感したこと、改めて気づいたことがあった。
きっと、今回も、同じように行動する人がいるだろう。
私の知らない話題で、同じようなことが起きているのだろうな。
そのことを忘れがちになるけれど、気をつけていたい。
医師の言葉
患者にとって、医師の言葉は重い。
もちろん、言葉をどんなふうに受け取るかの行き違いは、どこにでもある。でも…
×歳までしか生きられない、と言われたと、泣きそうなお母さんがいた。
医療は日進月歩だから、断言などできないはずだけど。
難しい状況の場合、どう言えばいいのか、悩むことも多いだろうけれど、
患者のためになりたい、と思う気持ちがあるのなら。
それは言うまでもないほど、当たり前に感じていることかもしれないが、
辛いことを言う時には、その気持ちも添えてあったならば、
お母さんも、あんなに辛い思いをしなかったのでは、と思う。
医師にとっては、患者は大勢の中の一人でしか、所詮他人でしか、ない。
だけど、信頼できたなら、それは患者にとって大きな力。
患者や家族は状況に向かい合っていかなければならない。
たとえ軽いと思われるものでも、それぞれの辛さがある。
特に、子どもの親御さんなら、本人ではないもどかしさも抱えるもの。
必死になる親の気持ちに、圧倒されて大変な思いもするだろうけれど、
一番身近で患者を支えている親御さんの力になる言葉があったなら、
患者の予後も良くなるのではないだろうか。
移植医療
人の死を前提にした治療がもたらすものは…
子どもがドナーになるとしたら、親が判断することになる。
脳死の状態で死を認めるかどうか、親に判断を迫ることになる。
子どもがレシピエントになるときも、親が決断することになる。
どちらも、親という理由だけで、とてつもなく重大なことを
決める義務を負うことになっている。
こんな重荷を負わせていることを、忘れないでほしい。
もちろん、患者や医療従事者も、負うものが多くて。
移植医療を推進している人たちは、
荷を負わせている人に対する支援もしてほしい。
生きてほしい、生きたいという気持ちから進んで来た移植医療は、
とてつもなく大きい課題を抱えている。
離れたところから
もどかしい思いをする。
医師は医療行為を通じて、親は生活を共にする中で、知り合いは付き合いの中で、
生きようとする生命に、力を貸すことしかできないのだと。
同じような病気の人たちに、祈ることしか、私にはできなくて。
自分にもう少し力があれば、何かできることがあるような気がして。
見かけで困っていることがわかるなら、支援を得やすい。
けれど、私のような障害は困難さを説明することさえ難しい。
だから、ちょっとした安心が心強い味方に思える。
逆に、ちょっとしたことでも辛く感じることもある。
何かとフォローしてくれる方たち、
身体が大事だから休んでいいよと言ってくれる職場、だから、安心できる。
けれど、休むと金銭的に困ることになるから…。ジレンマ。
どうすればよりよくいられるのだろうと悩みっぱなし。
一人暮し、勤めをしている、それをえらいと思われることもあるけれど、
健康な人が作り出した社会システムは、やはり私には合わなくて。
病気に関しての不安は仕方がないけれど、
保険に入れないこと、安定した身分になれないこと、
そういったシステムに関わるところで、安心を得るには、どうしたらいいだろう。
わかるように説明すれば、支援を得られるだろうか。
安心して暮らしたい。それが今一番の願い。