2000年夏
       

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不覚松葉杖やさしさゆっくり歩き疑問受容

不覚

転んだ。右足に痛さがあった。でも、その時はそんなに痛くはなくて。
そのまま会社へ行った。私は歩く歩数は人より少ないものだから、とちょっとたかをくくっていたかもしれない。
夕方になるにつれ、痛みが少し強くなってきた。これはいけない。
家の近所の整形外科がどこにあるか、知らなかったが、調べると意外と近く(およそ200m)にある。ラッキー。
そこへ足を引きずりながら歩いて行って、レントゲンの結果、骨にヒビが入っていることが判明。
それは痛いわけだ。足の甲の部分、小指側が本拠地だった。
冷やされ、足の裏に添木をあてられて、包帯でぐるぐる巻かれ、靴もはけない立派な怪我人となった。

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松葉杖

松葉杖を借りて帰る。痛い足を下につけなくていいのだが、暑い最中、家までの距離がとても長かった、
というよりは、松葉杖が重い。腕で体重を支え、腕で杖を先へ持って行き、手が痛くなる。
10歩ぐらいで一休みしないと、先へ進めない。動くのに疲れる。徐々に進める歩数が少なくなる。
玄関に辿りついた時には、半ば熱中症になっていた。

松葉杖で何度か病院へ行ったが、うまく歩けずに、気がつくと足をつけて歩いている。その方が楽なのだ。
よろよろしているのを見かねて、車椅子を貸そうか、と言われたが、
一人、狭い道路、坂、階段と揃っていて、とても動けなくなるので辞退。
松葉杖を借りていたのは、10日間ほど。病院へ行く時くらい使っただけ(しかも休みもあった)だが、それでももうこりごり。
その頃、家の中では足を使わないで移動していた。狭いので助かった。

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やさしさ

ゴミを出そう、ととりあえず袋を抱え外へ出た朝。
大家さんがいたのでお願いしたら、若いのに怪我するなんて、と笑われた。
彼女も杖をついて歩く人。使っていない杖があるかあら、と断った私の部屋まで持ってきて貸してくれた。
転んだ場所、家から道路への高い数段の段差。そこに早速手すりがついた。
犠牲といっては悪いけれど、今後高齢者が住むかもしれないから。
そんな風に考える大家さんの所にいてよかった、とつくづく。

会社に行くと、大変だね、と声をかけられる。自分の不注意でなったこと、心配されるのが恥ずかしい。
できないことは、助けてもらえる。帰る時に気をつけてと言われる。
そんな周囲のやさしさに触れて、複雑な気分になる。
怪我が痛むことも、動きづらいことも、確かに不便だし不自由。
だけど、体調が良くなくて苦しくて、医務室へ行った方がいいか悩みながら、
すぐ目の前のことしかできず、それをしている。
疲れすぎた身体で帰りのバスに乗る。
何度かあったその時に比べたなら、動きたいと思えば動ける今のほうがどんなにいいか。
でも、何かあれば頼れるんだね。それが見えるかたちで現れた。
なんとなく感じていた見えない安心を、実感する機会になった。だからこれからも安心していられる。
(でも、心配の種を持っている人が、我がままにも周りを巻き込んで、申し訳ない…カゲの声)

外を歩いていると、どうしたの?それでよく出歩くね、そんな風に言いたげな視線だけをいただくこともある。
手を貸さないといけないかも、でもできない。目に見えるから、様々な気持ちを引き出してしまうのだろう。
それはやさしさの裏返しかもしれない。私は変わらず私だから、どう見られても構わないけれど。

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ゆっくり歩き

杖をついて歩く。速くは歩けない。特に階段は、一段一段両足を揃える。
後から来るものをやり過ごすため立ち止まる。進まない階段を見上げると壁に思える。そして、ゆっくり歩きの感覚。
ふと、懐かしい思いにとらわれる。
子供の頃、特に手術をするまで、歩くのが遅かった。その頃の感覚と近いのだ。
階段の昇りは、今でも疲れている時はゆっくりになる。
けれど、疲れていると先を見上げる気持ちが違う。
疲れるまでに身体を心を動かしているので、そちらに気持ちが向かう。
見上げて壁に見えるのは、先へ行きたい気持ちの前に立ちはだかる障害物に思えるからだろう。
そう、進みたくても周りよりも進まない。この感覚。
子供の頃はどんな思いでいたのか覚えていないが、こんな中をいつも過ごしていたのだね。
そして、それでも前へ歩いて行こうとしていたんだね、いつも。
そんな自分が、ちょっと愛しくなる。

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疑問

どうしたの?と訊ねられる。答える。そんな事が最初、続いた。
持病がある身には、核心をつく質問が心地よく思える時があった。
病気の場合、相手から訊ねられることは、少ない。
私は、訊かれれば答えるのだけれど、こちらから話題にするのは気がひける。
こうして、接点が見出せなくなっている。
でも、見ず知らずの人に、骨折?と訊ねるのは、不躾に感じる。
このあたりの微妙な感覚…。
これが病気に対しては周囲が退いてしまう部分なのかもしれない。

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受容

病気や怪我のことを話していると、
状況を軽く見たい(病気やケガをどこか認めたくない)という自分の気持ちを、感じさせられる。
自分で何とかしようとするのは、強さなのだけれど、
自分の弱さを出して、支援を求めることがなかなかできない。
病気と長く暮らしていながら、まだまだつっぱって生きているんだ、とつくづく感じた。
本当の意味で病気を受容できるのは、まだだいぶ先になりそうだ。

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