車椅子やオストメイトの人が使える、広いトイレが増えた。
それを多目的トイレと言っているところもあって、
空いている時は、誰が使ってもいいんだと思ったりする。
でも、そのトイレでなければ、用を足すことができない人は、
普通のトイレで用が足りる人に使われたら、
空くまで、ずっと待っていないとならない。
そう、普通のトイレが使える人は、どちらも使えるけれど、
オストメイトの人だとしたら、片方しか使えない。
それなのに、両方使える人に使われたら、不公平。
せっぱつまっている時に使えなかったら。
想像するだけでもつらい。
違いがあることをあいまいにして「誰でも」と言ったとき、
どちらかしか使えない人の大変さが隠されてしまう。
両方とも大丈夫な人が、片方しか使えない人のものを使ったら、
障害のある人とない人の差がなくならない。
違いを認め、本当に必要な人が使うべきものを区別すること。
それがなければ、障害のある人とない人のバリアがなくならない。
両方をできる人が誰でもと言ったとき、
できない人に対して、見えない暴力をふるっているかもしれない。
できない人の領分を侵しているかもしれない。
以前、車椅子スポーツを、健康な人も車椅子に乗って
一緒にやったら対等では、と思っていたら、たしなめられた。
車椅子の人は、それしかできないんだよ、と。
そんな当たり前のことを忘れてしまう、動ける人のどうしようもなさ。
身近に車椅子の人がいたら、気づいたことかもしれないのだけれど。
そして、区別は差別ではないと、心に置いておきたい。
昇りのエスカレーターを歩いて昇る人のいる光景が、日常的。
身体を鍛えるために、健康な人は階段をという意見がある。
そう、確かに健康な人は動いた方がいい。
でも、それだけではなく、ちょっと考えてほしい。
階段を行けない人は、昇るのに時間がかかったり、休息が必要になり、
エスカレーターに乗ることで、やっと昇れる人に追いつける。
それなのに、脇をさっさと昇られたらどうだろう。
健康な人との差を縮めようと努力してもかなわなくて、補う手段を得ても、
健康な人まで便利だとばかりに健康な人の感覚で利用されたら、
いつまでたっても差がなくならない。
追いつけないかなしさ。
階段に苦労している人からしたら、エスカレーターを昇られたら、本当に不公平。
疲れていたり、身体の自由が利かない人は、
動くエスカレーターの上でバランスをとることも苦労する。
だから、脇を移動されると危いと感じたりもする。
こんな、目に見えない苦労にも、思い遣りを。
段差をなくしたり、スイッチが軽かったり。
力がない人のための設備を整えた、バリアフリー住宅。
健康な人がそんな中にいたら、筋力低下する。
人間なんて、元来楽をしたがるものだから。
小さな動作の積み重ねが不足したら、知らず知らずに衰える。
力のない人だって、多少無理して動くことも必要。
どのくらい配慮しないとならないかは、人によってまちまち。
最初から、かたちにはまるのではなく、
その人の持つ状況や体力に合わせて、設備を変えられる、
そんな家が一番、人にやさしい住宅。
相手に合わせて何をしたらいいかを考えてすることが、
本当のやさしさ。
歩道から車道へとなだらかに傾斜しているところは、車道へ出る車への配慮。
ベビーカーや車椅子には必要な、交差点や横断歩道の傾斜でも、
少しの起伏に歩きづらいと感じる足の不自由な人もいる。
黄色の点字ブロックは、視覚障害の人の大切な道しるべ。
だけど、車椅子や、足の不自由な人など、
あの凸凹がこたえる人もいる。
体が不自由だと、ほんのちょっとしたことも響くもの。
だから、歩道の傾斜が、点字ブロックが、ある方がいいと言えない人もいる。
どちらにとってもいい方法があればいいのだけれど。
エスカレーターのご注意の音声、車内放送、店内放送、BGM。
必要な人もいるけれど、騒音に感じる人もいる。
好きな音楽で耳をふさいで歩く人もいるけれど。
必要な時、必要な言葉を気軽に交わせるなら、
騒音になる音も、ずいぶん減るんだろうな。
信号の誘導チャイムは、目の不自由な人のためのもの。
だけど、近くに住んでいる人にとっては、騒音。
だから、夜には止めている。不便。
人が周りにいない時こそ、誘導が必要なのに。
どうしたらいいか、難問。
困っている人や障害のある人と積極的に関わろうとする人がいる。
それはとてもいいことなのだけれど、
時には、お節介、相手の負担になっているかもしれない。
思いやりは、思い込みでもある。
多分大変だと思うから、自分ならこうだから、と
相手と関わろうとするのだろうけれど、
相手の考えや感じ方は、本当のところ、わからないのだから。
逆に、知識がないのに関わっていいのかという人がいる。
それだって、思い込み。
具合の悪い人だって、障害のある人だって、知識はなくても
身体や生活や今と折り合いをつけようとしているのだから。
大変そうな人がいた時、すぐ何かすることがいいとは限らない。
いつでも手を差し出せる準備をしておいて、
必要なら、さっと支援すること。
そんな、何もしない援助、見守る援助だってある。
目に見えない援助だから、出会うことは難しいから、
気付くこともなかなかないけれど、たくさんあれば安心していられる。
4月18日付朝日新聞朝刊 大江健三郎氏の文章、離れたところから見守る女子高生の姿に希望をもったという話しに共感しつつ、この項を書きました。