ともにいたいから
更新日:2007/5/20 [↑menu]
障害に関して感じること、思うこと。
病気のハンデがあり、障害者と言われる立場。それってどういうことだろう?
でも、どれだけ違っているかは、自分では判断できない…
| めざせ盆栽 | 障害はどこに? | 障害者って? | 相補しよう | 囚われないで | … |

囚われないで、使おう

前にも書きましたが、段差や体制のせいで不自由をしているのから障害者。
だけれど、意識していないと、なぜか「障害」ということに囚われてしまうもの。
障害なんて、手帳ひとつ、外側に張られたレッテルみたいなものでしかないのに、
障害があるから無理、と自分を縛ってみたり、手助けがあるのが当たり前、なんて思ってしまう。

障害を黄門様の印籠と同じにしてはいけないのだよね、相手を脅かすことにもなるから。
そう、健康なら優先席に座らないのが当たり前、障害がある人は座れることが常識だとして、
たまたまその時具合の悪い手帳を持たない人と、その時元気で手帳を見せた人がいたら、
具合の悪い人は、相手が手帳を見せなければ、元気さの度合いで席を譲られても、
手帳を出されたばかりに座れなくなってしまう、下手をすると立たないと白い目でみられるかもしれない。
障害があると主張するだけで、相手のことを考えない振る舞いになってしまうかもしれない。
気づかずにそんなことを続けたら、疎まれても仕方ない。
自分が障害者だと囚われてしまったら、そのことに気付けなくなるものだから。

障害を軽くする制度は、道がふさがれた時に、障害物をスパッと切り分ける刃物、
時に周囲や自分を傷つけることもある、両刃の剣。
うまく使いこなせるように、剣術の訓練も必要かもしれない。
はさみくらい、扱いが簡単にならないものかなあ。
障害がどういうものか理解が広がれば、重装備しなくてもいいような気もしますが、
それまでは、気をつけながら、使いこなしていきましょう。
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相補っていよう

車椅子の人と視覚障害の人が二人で歩いている。
視覚障害の人が車椅子を押し、車椅子の人がナビしている。
当然、ボランティアという特別な人はいらない。
ただそれだけのことだけれど、ボランティアをする側の人にとっては目からウロコだったらしい。
それはその方の考え方が不自由だったんだね、きっと。

障害があるからといって、いつも助けられる側ではない。誰にでもできることはある。
そして、たまたまそれが合う二人だっただけのこと。
カップルになれる組み合わせ、なれない組み合わせがあるように。

合う人がいたら、お互い補っていけばいい。
ボランティアや理解ある人にだか頼るのとは違った何かが感じられると思う。
その時、障害は不自由といった一面ではなく、別なものに思えるのではないだろうか。
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障害者って誰のこと?

 障害者というと、みなさんはどんな人を思い浮かべますか?

 視覚(見ること)、聴覚(聞くこと)、肢体(動くこと)、内部(維持すること)、知的(考えること)、精神(社会生活すること)など、これだけ多くの違いが、一つの言葉で表現されています。支援も、日常的に必要な人から、時に応じて必要な人まで様々です。

 どんなふうに暮らしを維持しているか、立場により大きく異なるでしょう。だから「障害者」とあると、一体どういう人のことを言っているの?と確めたくなります。ある障害だけ取り上げるならまだしも、違いも考えずにひとくくりにされることも多くあります。
 「障害者」という人はいるでしょうか。例えば見えないことで生活に制約があり、行動に配慮が必要なことは「障害」です。でも人の方を「障害者」と表現すると、その人が特別なのだと錯覚します。点字や盲導犬やヘルパーなどを使っても、見えないことの制約を補えたなら、その人の「障害」はなくなり「障害者」でなくなる。現実にはなかなか完全に補うことができませんが、「障害者」という言葉は相対的なものです。

 障害に関する話は、病気やケガに当てはまることもあり、どう違うのか考えさせられます。動けなくてもすぐ回復する見込みなら障害者と言えないでしょうが、ではどこからなのか。

 手助けする、もしくは、受けるときの葛藤。支援があることへのやっかみ、受けることへの恥じらい。異形なものへのまなざし。話題にしていいのかという躊躇。障害をめぐっては、感情もつきまといます。

 だから、障害を語るのは、障害をみるのは、ほんとうに難しい。でもこれだけは言えます。「障害者」がいるのは「障害」をなくせず、意識させられることが多いから。

 今、障害者が抱える負担を個人や家族に負わせ、障害を増やしかねない方向へ向かっています。そんな時だから「障害」を減らし、みんなが生きていかれるようにするにはどうしたらいいか、考えていきたいですね。 (インターネット新聞JanJanに投稿し、掲載された記事。)

障害の種類の内容を、ごくシンプルに表現してみましたが、適切だったでしょうか。
「障害者」という言葉がいかに多くのものを含んでいるものか。
障害者という言葉を見聞きした時は、何が大変なのかに注意を払いたいものです。
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障害はどこに?

障害者に障害があるのではなく、段差や体制が障害。
([☆障害者は「障害」のある者ではなくて…])
以前そう書いたら、反響をいくつかいただき、ちょっと意外だった。
人を表す方に障害という言葉がくっついているし、
障害のある人が変われば、その方が楽だという見方もあるようで、
なかなか、障害者=障害者と言われる立場、とは思えないのかもしれない。
最近は、バリアフリー、ユニバーサルデザインなど、
社会の側が考えなければいけないという発想が広がっているので、
あまり説明しなくてもいいと思ったけれど、
改めて読むと少々新鮮に思える。

もっと進んで、今はICF(国際生活機能分類)というものがある。
障害を3つのレベルに分けて考えるようになった、国際障害分類で、
社会的不利の部分で、社会の側の問題が指摘しやすくなったが、
機能・形態障害から、能力低下、社会的不利と、
何らかの心身の障害がもとになっている。
その改定版のICFは、
人の健康状態と環境(社会通念や個人の立場)などの相互作用で、障害が生じるという観点、
障害のある人を分類するのではなく、すべての人に対して、どういう状況かという分類になり、
がんに罹りやすい家系ゆえ保険に入れないことも、社会参加の制限として挙げられている。
勤める時、深く付き合おうとする時など、人から選別される機会はいくらでもある。
完全なもの、よりよいものが求められる風潮の中で、
社会という、顔の見えない相手から拒絶(排除)される=障害となる事柄が増えている。
そう考えると、ICF(国際生活機能分類)は、大事な視点を与えている。

今は医師の診断が必要で、ある程度固定された状態でないといけない障害の認定も、
いずれは、医師によらず、子育て中の人、妊婦、高齢者も含め、
社会生活上何かの支援が必要な状態の人に対しての認定が可能になると思うし、
ワンポイント支援で社会復帰できるなら、そちらを勧めた方が負担も軽くなる。
もっと人を支援する柔軟な制度ができるようになれば、社会が豊かになると思う。
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めざせ盆栽

広い場所で伸び伸び枝を広げる大樹の姿にあこがれるけれど、
制約がある中で窮屈な思いをしながら生えている木が大部分。
その中でも、手をかけないと枯れてしまいかねない、鉢植えの木、
医療や福祉の支援が必要な私の姿が、そこに重なった。
でも、鉢植えにされたって、生き方はいろいろあって。
鉢を割るほどの勢いを持つ木もあるし、
底の穴からちゃっかり(?)地面に根を張っていくのもある。
そして、ふと思いついたんだ。盆栽になることもできる、と。
もちろん、みごとな盆栽になるには、手入れが必要。
植え替え、剪定、水やり、時に枝に針金をかけて誘引…。
その環境を得ようとしたり、自身で努力したりすれば、
実現は不可能ではないはず。
だから、私は盆栽になりたい。[☆制約があっても]
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2006/5〜

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