難病の制度を受けるようになり、毎年のようにどっさり書類が届くようになった。
あいまにも2度、手続きの書類が来る。
書類が必要な福祉制度は他にもあるが、こんなに書類に追われるものかと驚いている。
住所氏名くらいなら、さほど負担には感じないが、
難病では、収入に関するもの(低所得かどうかで援助額が変わるため)、
主治医の診断書(病状のチェックのため)も必要で、自分を問われている気がする。
診断書をもらうには料金がかかる。(病院にもよるが、3000〜8000円ほど)
あいまの書類は、通院・入院の日数の確認で、病院が記入するもの。
通院先が遠く、頻度が低い(3ヶ月に一度)ので、通院日を調整しなければならない。
制度のために気を遣う。
私の済む市は、通院した月は見舞金が後払いであり、通院費が助かるが、
診断書料や書類準備の諸々を考えると、気持ち的に負担が大きい。
間違いはないか、保健所で確認しようとすれば、勤め人はお手上げだろう。
いや、もし勤めていたら日々手一杯で、書類の束にめまいを起こしそうだ。
障害年金を受けていれば、およそ2年に一度、診断書が必要になる。
内部障害では、有期認定といい、変動がないかを確認される。
他の障害は一度認定されればずっと有効のようで、
障害年金は生涯と誤解している人も少なくないが、
心臓機能障害では、本人が変化を感じないのに支給停止ということも起きている。
(判定する人によって違うとしたら、その基準は見直す必要があるのでは?)
診断書が定期的に必要な人と、最初一度だけの人、不公平ではあるし、
診断書を出したら年金が停止、ということになると、生活への影響が大きい。
身体障害者手帳も有効期限はないと思っていたが、
最近は、有期認定の人がいるという話をきく。
これも診断書を定期的に出すのだろうか。
生活支援の制度では、毎年の書類(簡単に記入できる)と、2年に一度の調査がある。
調査では家にきて質問に答える面談と、主治医の書類が必要になる。
こちらは診断書ではない(役所と主治医の間でのやりとり)ので金銭の負担はないが、
面談に時間を割くことになる。
さて、今までどれだけ、労力や時間や料金を書類のために使ったのだろう?
主治医もどれだけ診断書や意見書に時間を割いているのだろう?
必要となるからやってきたことではあるけれど。
福祉制度を受けている人は、(お金が手に入るから) いい思いをしているのだろうとみる人がいる。
受けている私には、お金をいただいているから我がまま言ってはいけないような、謎な感覚がある。
いったい何なのだ、これは。
支援がお金なのは、お金が便利なものだから。
本当に欲しいものは、たとえば…
電車で出かけようとして、遠いし人混みや階段がある、荷物もあってしんどい。
タクシーで行けば楽々だな☆、という時に、お金があれば。
そう、体が楽な状況をつくりたい、もっといえば、
疲れていなければ感覚も冴えていて、見聞きするものが興味深いから、
そういう状態でいたいのだ、私は。
(ちなみに、重度障害者へ配られるタクシー券は、近くで利用する前提で地元タクシー会社のみ、料金補助も一部のみ)
別の場面。
スーパーで、みずみずしいキャベツ!いい牛乳も期限近くて安い(牛乳って駄目になる寸前が美味しいよね)
でも重くて持って歩けない。…そうだ、配達してもらおう☆
ああ、けど疲れたところに配達の人が来ても出られないかも。執事がいたらなあ☆
せっかくのキャベツも、疲れて料理する気力ないかも。お手伝いさんがいれば。
でも、急には頼めないな。…
お金の心配がなかったとしても、いい思いをできるわけではなく、
疲れて気力が乏しくなる状態は逃れられないもの。
いい思いをしているだろうと勝手な解釈で妬むあなた、
どうぞ、いつでも代わってあげますよ、この身体、ぜひ体験してくださいね。
え?誰でも疲れるんだよ、って? 言うと思いました。
気力がなくなるほど疲れるって、たとえるなら、マラソン走った後ぐらいでしょうか。
毎日マラソンや登山したように疲れっぱなし、というのが近いのでしょうね。
もちろん、達成感も爽快感もなく、ただ疲れるのですよ。どんよりと。
医療費の明細をみると、こんなにというほどの金額となっていて、
これだけのものを私が使っているのかと怖いように思うけれど、
数字の大きさに惑い、大事なことを忘れないようにしたい。
診てくれる病院や先生があり、いい薬があり、それを必要とする私がいて、
先生の見識が活き、薬が役に立ち、私が快適に過ごせれば、何よりお金の活きた使い方だから。
もし製薬業界の裏で動くお金があるとしたら、それよりずっと価値ある使い方だから。
お金は、あくまで道具。
魔力があるのか、特別便利な道具だから意識してしまうのか。
どうして気持ちが縛られるのか、不思議。
障害ということばが、ずいぶん気軽に使えるようになった。
昔は障害者の烙印を押すという感じで、一生大変な状況と思えるようなものだった。
障害が固定しないと認定されず、支援も乏しく、発達障害という概念などなかった。
障害として大変さをまとめることで、訴えやすく、支援を得られるようになったが、
様々な障害ごちゃごちゃのまま安易に使うようになり、私にとっては使いにくいものになった。
どんなことに困っているかを伝えるにしては大ざっぱで、
内部障害といっても、求めるものを言い表すことができない。
障害があると言えば理解されるのでは、という甘えも生むし、
相手が持つ障害観もとらえ難い。
こんな言葉に頼るなら、もっと自分の言葉で伝えらえるようになりたい。
発達障害を、障害とことさら言わなければならないのもかなしいものだ。
子ども時代の私をみれば、おそらく発達障害と診断されると思う。
それで、こうした方がいいという助言を受け、何かをしなければならないとしたら。
小学低学年の頃、行動が何かおかしいと感じた時、心臓病の他にも問題があるのかと胸を痛め、
これ以上親に苦労かけたくないし知られたくないと感じたから、
特別とされる自分を受け止められるかどうか。
偉人の中にも障害があったと思われる人物が幾人もいるというから、
大らかに見守れるようにできないものか。
障害のある個人へ働きかけ、周りと折り合いやすくするよりも。
当たり前に過ごせるようになれば、障害という言葉はいらない。
相手への望みは、伝えなければ叶わないもの。
それぞれが自分の想いを伝えられるようになればいい。
上手に伝えられるように鍛えていけばいい。
誰もが周りの人と違い、コミュニケーションしていくものだから。
(実は周りの人たちのコミュニケーション能力が低くなったから、ことさら障害が際立つのかもしれない)
JRの運賃割引は、101km未満は介助者と一緒に行動するときに障害者本人と介助者一人が半額
101km以上なら障害者本人が半額になる。(内部障害者の場合)
特急料金の割引はなく、急行は割引く。不思議に思われる。
正確には、障害者手帳のJR割引の欄により2種類の区分があって、
二種は、101km以上の割引のみ、一種は、101km未満の介助者と一緒の割引と二種と同じ割引。
推測すれば、障害が重い人はそう遠くへ行かないだろうし、介助者がつくだろうから、二人で一人分にしましょう、
軽い人は帰省に便利なよう、学割と同じような設定になっている、ということのようだ。
特急が走るようになった頃は、割引の意義が軽視されていたのかもしれない。
制度を作った当初はその意味合いも理解されやすかっただろうが、
人々の生活、障害の範囲や鉄道の利用の仕方が変わり、制度もつぎはぎになったようだ。
割引制度は、好意ともいえる。
今は、制度があるという情報をいろいろなところで得られるようになり、
意味合いよりも、制度を受けられるかどうかが注目される。
でも、ちょっと考えてほしい。
身障者手帳の提示で無料で入れる美術館や博物館では、入場券をもらえないところも多い。
一人前とみられていないのだとしたら、それを受けとるほど、自分を低く見ているということではないか。
割引けばいいというスタンスで、対応がなおざりになっている場所は、居心地がよくない。
美術館などでの望みは、展示をしっかり観る感度を保つために、疲れず快適でいられること。
見た目ではわからないから、エレベーターへの案内がなくても仕方ないが、
尋ねれば案内があるようにはなってほしい。
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