障害や病気が普通でないことだとしたら、普通って何だろう。
Aさんは普通のところとそうでないところがある。Bさんは普通(らしい)。
Aさんにとっての普通と、Bさんにとっての普通と違うかもしれないのに、普通とみている。それで支障ないからかもしれない。
そんなふうに、普通っていうのは、かなり曖昧に漂っている気がする。
いうならば、摩擦が起きない、困らない範囲なのかもしれない。
図では普通と違いを色で表しけれど、色には境目はない。
ここからこの辺は何色、というのは、人が決めたこと。
同じように、小さな違いだったら暖色系くらいに大らかな分け方でいることもできるはず。
困ることがなければ、それでいいのだけれど。なかなかそうはいかなくて。
普通でないところには、意識が向く。(Bさんは外から、Aさんは内から)
そして、双方が関わる時。
Aさんはあまり迷わないけれど、Bさんは、違いをどう扱っていいか迷う。違いを意識しすぎると、普通の部分が見えなくなってきたり、おろそかに扱ったり。
Aさんは、違いから困ったことが起きないよう、普段自分がどうしたらいいか、どう動いたらいいか迷う。Bさんはあまり迷わない。
普通というのも、人により場面により、何を、どこまでというところが違うかもしれない。
曖昧なものを基準に、違いを含めて関わろうとするから、苦労することになるんだね。
人との関係はお互い様ということもあるけれど、AさんとBさんは対称にはならない。だからひっかかるのかもしれないね。
そう、Bさんは、Aさんを見ることで、違いに対して気持ちの葛藤が生じるけれど、Aさんは普段から葛藤があって、他の人との関わりでさらに別の葛藤も負うことになるのだから。
でも、実際はこんな単純じゃないよね。
BさんにはAさんと別の色(種類)の違いがあるかもしれないのだから。
病気・障害と健康・健常をわけることで、見落としがちだけれど。
違いが大きくて差をなくすことを考えた時、二人の間の差なら、双方で何とかしようと動いて解決できるかもしれない。
けれど、大勢の人がいる時には、どこかで分けることが必要になる。
例えば、福祉制度で支援しようとする時に、どういう人が対象になるか。
あるところで切り分けられたら、境界に近い人は落ち着かない。
どうして対象になったのだろう、どうして受けられないのだろう。あの人とどれだけ違うんだろう。
どちら側にいても、納得できない思いは出てくるもの。
境界から遠くても近くても、なぜ分ける必要があるか意識し理解しなければ、切り分けられた人をこちらとは違う人たちとみる。
こうして、区切ったことの影響がどんどん大きくなっていく。
それが時には、理解しあえないと思う壁になったり、差別になったり。
支援を得られるかといった利害になってくれば、妬み、やっかみ、負い目…感情も大きくなる。
違いは受け入れても、あらわにされた時にはまた別のものを受け入れなければならない。
好きで分けられる訳ではないなら、なおさら。
障害はその人の一部分。全部を障害一色に塗った図との対比に目を見開かされた。
(10年ほど前、放送大学の障害者福祉の三ツ木先生の授業で。図AとB)
自分でも全部を一色に思っているところがあったと、つくづく感じた。
同時に私の病気・障害は見かけではわからないから、たいていは図Cの状態だと気付く。
自身の障害を否定する人も大変さのフォローが受けられないから、Cかもしれないね。
そして私も病気のことを意識していると、Bでいると思われる。
自分自身をきちんとみることも難しいけれど、きちんとみてもらうことは、もっと難しい。
状況が固定されていればまだしも、症状が変わっていく状態があるのだから、
いろいろなところに病気や障害の影響があるのだから、なおさら。
付記;三ツ木先生は、全身性の障害の方を意識して図を示されました。
介助が必要な人の場合、本人が話せるのに介助の人と会話されたり、何もできない、守るべきものとされたり、その人の意思が反映されづらい、立場はどうなる、と言いたくなる状況があります。対人の困難さのレベルは比べものになりません。そのことは、心に留めておかなくてはならないでしょう。
私のいた学校では、5〜7人のチームごとに走るクラス対抗のマラソン大会があった。
教室ではチームの一員でも、体育見学の私は、そこでは見学。
学校には知的障害の子たちのクラスがあって、彼らは参加すればいつも賞があった。
ある時、1位でゴールした私のクラスが、失格。
走るのが遅いH君が途中棄権したというが、正規の手続きをとっていなかったという。
置いてきぼりなのか、真相はともかく、担任は、みんなで走ってほしかったという。
私は、みんなのうちに入らない?
これが、障害が見えにくい人の置かれた立場をよく表していると思う。
この時に限れば、知的障害のハンデにはフォローがあるけれど、走れないハンデにはフォローがない。
全員でというなら、私だって一緒にコースを歩くことはできるし、途中棄権だってできる。
本当に参加できなかったのか。
その時に気がついて、私も参加したい、と言っていたら、クラスのみんなや担任は認めてくれただろうか。
このマラソンのように、全員の力をならすようなやり方だと、ハンデある人のチームの順位が落ち、評価がさがる。
けれど、それぞれで走って、その順位やタイムを計算するようなやり方だったら、また評価は違うだろう。
参加したいと言っていたら、そんな工夫も生まれたかもしれない。
参加できないことを、本人も周囲も承認していたら、何も変わらないけれど。
こういうことを意識しやすいのは、障害のある側。意識すれば、状況を変えやすいとも言える。
参加できないという思いこみから離れ、できることを考えていくと、考え方の幅が広がっていく。
誰が気付いたにしろ、周囲を巻き込まないと変えられないから、しんどいものだし、
その煩わしさを避けて通ることも多いのだけれど。
手助けを得ようとする時、様々な感情がわく。
生きるための動作もできないなら、人手を借りてでもしなければならなくて、
手を借りなければ困るというより、悲惨な結果が待ち受けているから、
恥ずかしくても、相手の対応が気に入らなくても、ちゅうちょする余裕はない。
街へ出ている重度障害の方たちは、障害が重いからこそ覚悟はできている。
どうにかしなければと思うから、助ける側も動きやすい。
そこへいくと、やればできる状態で手助けを得る時は、自分の気持ちが済まないと先へ進めない。
任せた結果の仕上がりが思い通りにならないと、自分でした方がいいと思ったり、
できることを依存していたら、自分でする力が失われていくのではないかと思ったり。
一度きりの関係だったら、まあ仕方ないと気楽にいられそうだけれど、
大事なことを、よくわからない相手に任せる気にもなれなくて。
相手も相手の立場で戸惑いを感じるだろう。
本当に役に立っているのか、これでいいのかと。
そこをなんとかクリアすることはできないのかと思うのだけれど、
覚悟を決めて、みつめつつ巻き込みつつやっていくしかないのか。
すっきりしたくても、やっぱり、煩わしさとは縁が切れそうにない。
健康保険証や免許証に臓器移植の意思表示を書けるようにするという。
でも、欄をつくって提供者が増えるだろうか。
臓器移植が広まらないのは、価値観になじめないからかもしれない。
臓器をパーツとしてみたり、死んだ身体をモノと同じにとらえたり、おそらくそれが当たり前に考えられる文化の中から始まったのだと思う。
身体への感覚、生と死への感覚、教えられ頭で理解するものではない、日本の文化の中でなじんでいる感覚と相容れなくて、距離をおこうとするのかもしれない。
それなのに、する・しないのどちらかに決めなさいなんて。
考えていないわけではなくて、どうしていいかわからず保留しているだけかもしれないのに。
ドナーカードと言われるけれど、黄色のカードはドナーになるためのものではない。
本当は意思表示のカード、ドナーになる人は必携だけれど、ドナーにならない意思も表すもの。
提供しないか、心臓が止まってから臓器提供するか、脳死で提供するか。
そのかたちを選ぶためのもの。それを知らない人も多い。
そして、選ぶ以前に、死のかたちがこんなものではないと感じていたら、
どれでもない、と置いておくしかないはずで。
移植が必要な人がいたら、苦しみをなくしたい、助けたいと思う。
提供してその苦しみがなくなるなら、やってもいいと思う。
けれど、家族が脳死になったら、受け入れられそうにない。
自分がその死を決めることなどできそうにない。
これはいかんともしがたくて。
そして、私が対象だとしたら、まず、生涯にわたる服薬や自己管理が必要になると思った。
時に移植した臓器に障害が起きて再び厳しい状況になることもあると知った。
死をほんの少し先送りしただけで終わるかもしれない賭け。
臓器提供することは、重荷を負わすことにもなりそうで。
どんな状況にあるかわからない人に対して、無責任に重荷を与えたくない。
知っている人であれば、素直に応援できるかもしれないけれど…。
機会の平等をめざすシステムと実際の移植の制約の中、掬われることのない想い。
意思表示カードを持っている私だけれど、人に勧めることはしたくない。
本当に決めなければならないこととは思えないし、決定を迫られることに対しての意思表示だってあるはず。
意思表示の欄が増えることで、見えない圧力が増してくる。
選ばなければならない大変さを負わせる医療、広めようとする力は、何をもたらすだろう。