希望のありか
2009/6:記  [もどる↑]

◆不思議だね  ◆きっといる  ◆同じところ  ◆究極の同じ  ◆混沌の中で  ◆つなげたい  ◆書いてみる  ◆歳月を経て

不思議だね

思うことと、実際に行動することは違うよね。
友のそんな言葉にうなづきながら、
それが死にたいだったら、一線を越えずにいられるかどうかの違いかなあとぼんやり思う。
その僅かな、けれど大きな差は、一体どこにあるのだろう?
・・・希望があるかどうか、希望を感じていられるかどうか、ではないか。

人によってどう感じるかは違うものだけれど、希望って、どこにあるのだろう。
そこで、私の希望のありかを探してみた。

きっといる

子どもの頃、患者会に同じ病名の人は殆どいなかったし、その中に手術を受けた方はなかった。
身障者手帳からつながりのあった地元の福祉会でも名簿をみても、内部障害の子どもなんていなかった。
ネットもない時代、患者会の行事にも行かれなかったけれど、小学校高学年から会報をよく読んだ。
親向けの患者会だけど、当時もご自身病気の大人の方がいらして、発言されていた。
だから、同じような思いで過ごしている人がきっといるに違いない、
同じ病名、同じ経過の人はいないかもしれないけれど、
似たような方はきっといるはず、となぜか信じていた。
・・・どうしてそう思えたのか不思議だけれど、通院・手術する病院で大勢の人がいるのを見てきたし、
直接は会えなくても、会報を通じて全国に散らばる同じような病気の人の姿が見えていたから、
同じ想いを持つ人もいる、と思ったのかもしれない。
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同じところ

その当時、外に出ることを拒まれることの多い車椅子の人たちが、外に出て、
母親の心配もあり家にこもっている車椅子の女性の気持ちを外に向けて、
彼女が駅前で勇気を出して手助けを求めるまでを、静かにしっかり描いたドラマ。
大変さは違うけれど、重なるところもあるなあと感じた。
障害という同じカテゴリを持っていることで、よけい、そう感じたのかもしれない。
(男たちの旅路-車輪の一歩- 山口太一:作 '79年頃放送)

全日制の高校以外の選択肢はあまり日の目を浴びることのなかった中学時代に、
学びたいと思えば機会はあるのだということを、本を通じて、母の話を通じて、知っていた。
通信制の高校、通信制の大学、そして、夜間中学校。
特に、夜間中学校の存在は、中国残留孤児の帰国者と家族の命綱みたいなところで、
生活に困難な人も少なくはないのだと知った。(国はそこまで考えてくれないということも)
かたちはちがうけれど、大変な思いをしながら生きている人は大勢いる。
そして、支える人たちがいて、少ないながらも支える場がある、そのことに力づけられていた。

究極の同じ

ある時「同じ」を追求してみた。
同じような人はいないかと思うのは、考えていることや気持ちを理解してもらえないもどかしさ。
では、同じ気持ちを感じてくれるのは・・・、
同じ経験をした、同じような身体で、同じ性格の、同じような環境の人、ということになる。
一卵性双生児だって、全く同じ経験をするわけではないし、これは求めるのは無理なんだ!
・・・ということで、「同じ」人、を求める気持ちが薄れた。
「同じ」状況ならあるのではないかと気づいていき、そちらを探すようになっていった。

病気・障害に関しては、探究心があることで救われたのかもしれない。
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混沌の中で

いろいろなことが思うに任せず、どうしていいのかわからなかった。
いずれは社会に出るとしても、あまりに他人と接する時間が短くて、
学校という場で経験を積みたいけれど、叶わずにいた。

そんな10代後半のある時、心に響くうたを歌うシンガーに出会う。
偶然にラジオ番組が始まることを知って応援をはじめ、いつしかコンサートの常連となっていた。
共鳴して生まれるエネルギーは大きいもの。
彼女が伝えるうたが、先へ向かい、人とつながる力となった。

勤め人だった親が退職して事務所を始め、手伝え、と家にワープロを運び込んだ。
それは・・・、働かざるもの食うべからず?と思ったりしながら、嫌とも言えない、手伝わないとならない。
そのうちに助っ人として出動したり、定期的に事務所に出かけるようになった。
仕事に関われること、力になれることがうれしかった。
でも、いつも午後から出かけるので、そんなでは社会で通用しない、と言われた。
そう、本物の家事に比べたら、ままごとのようなもの、それはわかるのだけれど。
役割があるということは、とても細いけれど私の中の芯だった。
たとえままごとでも、経験したことが、そこから先への道しるべとなった。
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つなげたい

患者会の役目で、相談の電話を受けていた母が言っていた。
「大丈夫、大丈夫と思っていると、そうなるのよ」
私の病気が分かり、先が見えない時に、年長の方から言われたという言葉を、
同じように不安を感じている若いお母さんに伝えている姿に、
希望を渡していくと、周りもあたたかくなるなあと思った。

母の気持ちを支える言葉をかけてくださった方の灯りが、
大変な思いをしていた母を照らし、私が大きくなり、
十数年を経て、灯りがまた別の人に渡っていく。
それを消したくないし、私もまた、誰かに渡せたらと思う。
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書いてみる

表現する手段があるから、救われている。
言葉にし、書くことは、いつの間にか身についていた。
書いては消し、考え、言葉をつむぎだして、まとめていく。
ドロドロしたものもたくさんあるのだけれど、自分の中にあるそれを認めることだと感じるし、
書いていくうちに、少しずつ変化して別の力が生まれていく。

書こうとして思い返して、感じる。
いろいろな状況が私の力になっていることを。
様々なことを再確認して、先へ進む力を見出している。

歳月を経て

子どもの頃は、わからないことが多かった。
それが当たり前だし、育つエネルギーが強かったから、まだよかった。
10代から20代、なぜ自分は生きているのだろうと考えた、というより悩んだ。
命を支えた医療や育ててくれた親の敷いた道を歩いていると感じ、将来もあまり思い描けなかった。
けれど、ある時、自分が生きていたいと願っていたからこそ生きてこられたのだ、と気づき、
たぶんそれこからスタンスが変わってきて、自分の動きで環境も変わってくると思えるようになったように思う。

病状が安定している幸運も、もちろんある。
実は、それも考え方でいい方向に行っているのではないかと感じることがある。
不整脈が止まらずに病院へ駆け込んで薬で止めたこともあったけれど、出たら止めればいいのだし、
不整脈で即命に関わることは少ないという思いがあるし(ただし、気をつけるべきことはある)、
さらには、また困ったらこうしてみたらどうかとあれこれ考えていること(医者は勧めない類のもの)が、
不安で起こることもある不整脈の一種のコントロール法ではと思う。

歳月を重ねた今だからいえること。
価値観が変わっていき、昔の苦しさが苦ではなくなること。
人生経験が短いうちは、その短い中での判断しかできないから、同じ辛苦も大きく思えること。
病気があってこの世になかなか馴染めなかったけれど、だんだんに居心地がよくなってきたこと。
知恵がついたから、過ごしやすくなってきたのかもしれない。
そうして、歳月を重ねて得たものが、また先の道を照らしていく。
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