2006年夏・臓器移植に思う
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臓器移植には、考えないといけないことがある。生きる営み、治療、脳死、決定、医学…。
それぞれが絡み合っているから、簡単に何かを言うことはできないけれど。
今書けることを、記してみる。

*知恵なら  *危うさ  *向きを変えれば  *子どもの移植  *治療なのか  *いのちに関わる

いのちに関わる

移植をすれば助かる。だから、必要というなら。
どうして生きたいと思うの?生かしたいと思うの?
いのちに関わるのは、大変なこと。覚悟がいること。
それなのに、安易に考えられているような気がしてならない。
すすめる人は、どれだけの重みを持って、支援しようとしているのだろうか。
移植をしたら、何も心配せず当たり前の生活が送れるというならいい。
けれど、制約はついてまわる。そのこと思い至る人がどれだけいるだろう。
いのちを生かすために、脳死という人為的な死の状態が作り出され、
一方で、生きることはいいことという思いを患者が過剰に負うことになる。
臓器移植が必要というなら、そこも考えてほしい。
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治療なのか

臓器移植って、治療なんだろうか。
どうも、悪い部品をすげかえればいいというイメージがあって。
手術は、そもそもある意味野蛮な行為。
では、どうして酷いこととされないかというと、その人を生かそうとするから。
人を生かすというのは、いのちのあるなしだけではなくて、
その人の存在を、この場(この世というか社会というか)で生かすことだったり、
何かの役目がある、というような(上手く言えないけれど)、そんなことだと思うので、
その人を生かそうとする気持ちが本人や周囲にあるかによって、結果も違ってくる。

治めて癒す、それが治療だとしたら、心が何より必要なこと。
私の心臓手術も、間違いなく私を生かしている。
私の一部である病気を否定された、身体に踏み込まれた痛みはあるけれど、
人と違うかたちのものを修復してもらったのだから。
それは、間違いなく私の身体を生かそうとする行為だと思う。
けれど、臓器移植は…。
手術を受ける本人は熟慮して決めるものだし、結果を一身に引き受ける。
でも、周囲の人は違う。
よくなる結果だけを性急に求めて、心を失うことにはなるのではないか。
そのために、受けた人が孤独に陥ってしまうのではないか。
それが術後の制約の月日の中、致命的なことにならないだろうか。
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子どもの移植

私は移植には慎重な立場。子どもの移植には反対したい。
いや、厳しい条件をつけたい。
それは、どんなつらいことがあっても、生きていることの方がいいのだと、
家族がその子にわかるように伝えられること。
病気のつらさや死より、他人の命の上に生きることの痛みを選択した理由を、
きちんと教えられること。
それができないような親には、移植を選んでほしくない。
病気は理不尽なこと。
治療しても制約があれば、やはりやりきれないもの。
その上、人の死を前提に行なわれるものだから。
それでも生きることの方を望んだのなら、
家族が覚悟を示さないと、その子は納得できないと思う。
大人なら、どんなに悩んでも自分で決め、自分が引き受けることだけれど、
悩みを経ずに痛みだけあるのだしたら…。
我が子であっても、痛みを代わることはできないのだから。
安心して暮らせるなら、こんなこと言わなくてもいいのに。
そして、「つらいことも多いかもしれないけれど、一緒に生きて行こう」と言えば、
健康な人が言うよりも強い励ましの言葉になるのは、私の特権だけれど、安易には言えなくて。
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向きを変えれば

先天性心臓病を持つ身ながら、部分的にでも反対と言い切るのは、正直勇気が要る。
でも、病気や死は、そんなに大きなエネルギーを割いてまで
どこか遠くへ置かなければいけないものなの?
病気だけを問題にされたら、患者一人(か家族)で抱えないとならない。
死も一つのありようと思えたなら、死への恐怖も軽くなる。
病気があっても、それなりに生きる道が確立すれば、悩みは少なくなる。
ちょっとわかりにくいので、話を変える。
例えば、角膜移植。
目が見えなくても不自由しない社会にすれば、視力へのこだわりも減る。
それには、周りの多くの人の力も必要になるけれど、
そんな解決法もあるはずだから。

個人の問題にして、そこに光が当たると、社会の側がどうかが見えなくなる。
角膜移植がどれほど普及しても、目の不自由な人はいなくならないのだし、
不自由さに対する方策や支援は広げていかないとならないのだから。
移植ができてよくなって、よかったね、という反応だけで止まったら、
移植の結果は、患者や家族だけで負わないとならないのだから。
内臓の移植では、自己管理の努力を長年強いられる。
移植の都合のいいところだけ見て、無責任に関わりたくはないから。
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危うさ

保険で移植ができるようになり、普通の治療になったという言葉をきいた。
でも、提供者の痛みがあって成り立つものを、他の治療と同じと思っていいのか。
心情もあるけれど、注がれるエネルギーも気にかかる。
生体移植は、間違いなく家族がいる人なら受けやすいだろうし、
脳死移植も同じではないか。家族のない人はどうなのか。
金銭面はいくらか解決したとはいえ、助かる命に差が残る。
その差は周囲に支援者がいるかや、その人の社会的価値で、
本人が生きようとする思いの強さは二の次。
そして、ずっと医学的な管理が必要だから、
医療保険がなければ生命を維持できないけれど、
これからもずっと支えていかれるのだろうか。
それを解決しないと、あまりに危うい治療だと言いたくなる。
命の尊さがあるからこそ、移植を受けた人は生きていく苦しみを負い、
移植という手段があるからこそ、受けられない人は辛さを負う。

海外で移植ができるのに、日本でなぜできない、と言われる。
でも、移植のできない海外の方が多いことを忘れていないだろうか。
医療がこれほど発達していることの方が稀。
金銭の負担があまりなく自由に医療を受けられることも、
他の多くの国と比べると、トップクラス。
海外を引き合いに出すのなら、そこも考えないとフェアじゃない。
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知恵なら

生死に対する感覚や文化も、時と場所によって異なる。*
昔は、死の過程は日常の中にあって、家族に見えることが多かったと思う。
死が身近でなくなって、判定も医師がいないとできなくなって、
普通の人は、死とともにいる時間や死を考える豊かさが持てなくなって、
死に対する知恵も失われたのかもしれない。
悼むことも、忌むことも、受け入れることも、死があることを前提とした知恵なのだから。

事故などで突然死にゆく人の最期に間に合わない家族が、死を受入れられるよう
死を引き伸ばすのが医療の役目のひとつ、そんな内容にある本で出会って、
それは心を穏やかにする知恵で大事な役目だと思った。
脳死も移植も死の引き伸ばし。
(脳死は、移植で身体の一部でも生きているという望みで、死のあり方を変え、
移植は、間近にあった死に猶予期間をもうけるもの)
もたらすものは悩みや葛藤も大きい。
これはいい知恵といえるのだろうか。

*現代の死は歴史的にみてどうか。
放送大学のTV授業 21世紀の社会学(第14回)「<死>の受容と<生>の技法」で考えるきっかけをもらった。
ぜひ一度みてほしい。
(授業内容の本も一般書店で販売されている→21世紀の社会学;船津衛ほか;放送大学教育振興会)
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