最終更新日:2013/12/30  [もどる↑]
2013年雑記
 称えるべきもの  福祉と医療のゆくえ

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称えるべきもの

線路に落ちた人を救った方に、表彰状が贈られた。
しかし、その理由には違和感を覚える。
命をかえりみずに行ったことを称えるなら、命を捨てる覚悟への賞賛ではないか。
賞賛すべきは、見知らぬ人の命を大事に思い行動したことに対してではないのか。
救われた人の立場からは、どう見えるのだろうか。

スポーツなどで、素晴らしい結果を出した人に賞が贈られる。
それを受けて出身地でも賞が贈られる。
それも不思議な気がする。仲間とみなした者への賞賛なのかもしれないが。

素晴らしい結果を称える気持ちはわかる。
けれど、今賞賛されるのは、大輪の花のような結果ばかり。
日々実直に当然のごとく役目を果たす、ひっそり咲く花への賞賛の機会はないのだろうか。
美味しいステーキを食べた時、料理をつくった人や店、牛を育てた人へ感謝の思いが至ったとしても
生きている牛を肉に切り分ける仕事に就いた人へ、思いが行くだろうか。
電車が遅れたときには文句を言いたくなるのは仕方がないけれど、
遅延なく動いている時に、駅ごとに一つ一つ確認しながら発車する車掌さんに思い至るだろうか。
当たり前に役目を果たす人がいるからこそ、快適に生活できるのだから、
本当に称えなければならないのは、間違いなく役目を果たしている人たち。
病気や障害のために能力や機会に恵まれなくても、命としての役目を果たしている人たち。
華やかなものに目を奪われて、大事なものを見失わないでいたい。
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福祉と医療のゆくえ

一昨年の障害年金の認定基準の変更で、今まで受けられた人が受けられなくなってきている。
数年毎の審査で、ボーダーラインから外れたとみられれば、それまで。
けれど、その基準が本当に妥当で公平なものなのか。
支障なく働いていた人が障害により制限ができた時と、幼いときから行動に制限がある人を同じに扱って良いものか。

今の福祉制度は、個人にある障害しか見ないものが多い。
その人が置かれた環境によって、障害の強さは違ってくるものなのに、ほとんど考慮されない。
働いていた人に行動の制限が加われば、働くことの基本スキルは持っていて、制限との折り合いを考えればよいが、
幼いときから行動に制限があれば、基本スキルの獲得からやっていかなければならない。
年金がカットされても、その人にフォローできる家族がいれば生活できるが、家族も貯蓄もなければ、即生活困難になる。
一つの制度だけで公平性を判断していては、環境に恵まれない人がどんどん不利になっていく。

難病の対象になる疾患を増やし、支援の道が開けるという。
だが、引き換えに、軽いとみなされた人たちへの支援がなくなる。
医療を受けなければ生きていかれない人に、収入を得る手立てをつくらぬまま支援を打ち切れば、結果はわかりきったこと。
難病の人たちだけで痛みを分け合いなさいという、そのしくみは何かおかしい。

医療の進歩で寿命が延びた。病気を抱えた人にも平等に。
けれど、予測ができたはずの高齢化でも、起きるであろうことを踏まえた社会のしくみはつくられなかった。
ましてや、病気がある者のことなど誰が考えてくれよう。
待っているだけではよくならない。無策を責めても嘆いても変わらない。
どうしたいか。それを実現するには何をすればいいか。そして行動、なのだろう。

慢性疾患が増え、医療だけでは解決しないことが増えた。
それでも狭い一方へ進んでいて、幸せになれるだろうか。
生きることが可能になってからは、生きて何をするかが大事になっている。
いいものを、これから作り上げていけばいい。
まずは願って進んでいこう。
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