昨年起きた大きな波は、治まった。
また新たな波が生じてはいるものの、今年も、穏やかに年越しにたどり着く。
たくさんの、いろいろなものに感謝しつつ。
今年の重大ニュースのトップは、手術のこと。
手術室へ向かう時に、あれほど穏やかな気持ちでいられるとは思わなかった。
先生方、看護師さんたちの支えが的確だったこと
一番気がかりだったことに精一杯対応したこと
だから何があっても悔いはなかった。
今は、少し燃え尽きた感もあるけれど、
新たな荒波に対応できるか気がかりではあるけれど、
この道をしっかりと、いや、この船を難破させることなく、進んでいきたい。
30余年ぶりの心臓手術、医療の進歩を実感。
技術、医療者の対応、どちらも素晴らしい。
ごく大変なことを強いた身体が応える、その回復力と、
技術を高め、的確に対応する医療者。
人間の持つ力はこんなにすごいものだったか。
人間はこんなすごいことをしていたのか。
前日はICU,手術室の看護師や麻酔医の説明で少し緊張するが、
手術室へ向かうまでの時間の穏やかなこと。
血液を患者で手配し、いろいろ事前の検査をし、当日も処置がある、
そんな時代からすると、こんなで大丈夫かと思いもした。
点滴で行う麻酔、ソフトな管でするっと抜けた人工呼吸、
抜糸不要の溶ける糸、と身体に負担の少ない方法になっていて、
傷口保護のフィルムのおかげで毎日の消毒もなく、
前の傷の上を切ったので、新たな傷はドレイン管の部分だけ。
手術翌日には普通に話ができて、2日目から飲食ができ、
3日目には自分でベットサイドに座るよういわれ、トイレも可能。
そうだ、昔は足の付け根から点滴をしていたので、一週間は起き上がれなかった。
ICUから病棟に戻り、点滴をつけたまま、室内歩行の許可→病棟内歩行可能に。
少し追い立てられるように思いながら、手を借りずにいられるのは嬉しかった。
最初は水分を飲むのにもむせていて、とろみをつける粉がすぐ用意され、
食事も食べやすいゼリーなどを提案してくれて、次の食事には出てきて、、
食べられない(食べなくては)というプレッシャーをあまり感じなかった。
そして、昔は食事量を量ってまで気にしていた水分制限がなく、拍子抜け。
そんなふうに、入院の日々はかつてよりぐっと穏やかなものだった。
(追記;傷の留め方や水分制限などは、病院により対応が異なるようです)
そして、ペースメーカーは、まるで小型のコンピューターのようなもの、
気づかない不整脈も、いつから何分間あったと波形とともに記録される。
これが体内にあると思うと少々不気味だけれど、やはり、すごい。
手術後、初めて病院へ行き、会計でびっくり。
薬局へ行き、もう一度驚く。
こんな金額になるとは。
健康保険があるから、医療費は7割引。
障害者への医療費助成があるから、最終的には戻ってくる。
けれど、これは皆が納めた保険料や税金。
どれだけの人たちに助けられているのだろう。
卑屈になることなく、忘れないでいたい。
手術入院も、助成があれば、かかりは入院の食事代くらい。
でも、総額の数字を見て、考え込んでしまった。
一回数百万円。
これが何人もいたら、国や自治体の財政もたまったものではない。
行政の側なら、生活保護のように受けさせない方針になったり
制度そのものを見直したりしたくもなる。
このままだとたぶん、それは避けられない。
国の制度でも、費用の一部は自治体が出すので、
財政が厳しいところなら自分のところを維持できる策が必要になるから。
必要な人が費用の心配なく医療を受けられるにはどうしたらいいか。
みなが幸せな方策になるよう、知恵を絞らなければ。
入院した時、同じ病室の方とエール交換。
手術に向かう時、退院の時、そんな節目に。
そして、それぞれがまた日常に戻っていく。
病名も状況も違うけれど、ここで一緒になるのも何かのご縁。
そのご縁は、先を照らす灯りとなるもの。
50年前に先天性心臓病の手術をしたという方に出会った。
健康な方よりもバイタリティー溢れ、現役主婦の70歳。
このくらいの勢いがあると元気でいられるのだね。
前から私は自分の寿命を70歳と思っている。
遠いところにある目標だけれど
そこへいくまでの勇気をいただいた。
前の手術から30年余り。長年大過なく頑張った事を、たまには医療者に褒めてほしい気持ちがあった。
あからさまに求めることができず、折をみつけて自分を認める形で表現してみた。
長年よく持ったなあと。
主治医からは医学や執刀医へ目を向ける言葉。
そう、医師も患者も、お互い自分たちが頑張ってきたのだと言いたいかのようだった。
どちらも正しく、どちらも認めないとならないのは確かなのだけれど、
どこか自分の方を重視する心持があって、こちらとあちらが対立するような感覚が生じていた。
医療者と患者との立場の違い、といえばそれまでのこと。
そして、医療が成り立つのは二者だけではないことを、つい忘れる。
診察室にいれば、とかく二者のことと思いがちになるが、
治療や手術が安定して勧めることができるようになるまでには、たくさんの命が失われている。
一人の患者が大きな治療をして命をつないでいるとしたら、
執刀医、関わった医療者や、医学
患者自身、家族や周囲の人たちや、暮らしぶり、とともに
同じような病気の先輩方、実験で命を失った動物たちも支えになってきたはず。
それを思う時、医師と患者を向かい合わせにする感覚の、なんと狭いこと。
手術を考えなければならない時、自分が生きるか死ぬかという視点になるのは当然としても、
インフォームドコンセントという医療者との関係も大事だとしても、
状況をよくしようと闘ってきた人たちの連綿と続く営みの中で、自分はどうしていく(いきたい)か。
その視点を持ったとき、個人の生死を超えた遥かに広い生を感じることができる。
昔と違い、今は医療者が治療の説明をきちんと行い、患者の選択が尊重されるようになった。
それでも、医療を必要としながら治療をしない道を選ぶことはまだまだ難しいように思う。
治療をせずにいくといういきかたも、治療とは別の闘い方のはずだ。
どちらも同じように尊重されるようになった時、連綿と続く営みがより豊かになるのではないだろうか。
昨春の大震災。日常生活が崩れる、大きな出来事。
入院しなければならない時よりもさらに深く、生活の基盤が失われる大変な事態。
そんな中生まれた支援プロジェクトに関わり始めた。
ふんばろう東日本支援プロジェクトできることをはじめようという呼びかけ。職種や個人の背景に関わりなく目的に向かうこと。
ボランティアという行為の集まりから、力の有るなしではなくてとにかく行動することの力を感じる。
ポジティブなエネルギーの中にいると、何だか自分も素直に身軽に動けるよう。
会社や団体といった組織にいれば、自分に枠をはめ、何をしなければ、何ができなければ、と思いがちだけれど、
その時、力を出せる人が出すという関わりは、その束縛を軽やかに越えるパワーを生み出す。
そう、自分の属性ではなく、何をしていくかを大事にすれば、病気もネガティブなものではなくなっていく。
震災からまもなく一年。
環境が整っている場所、力のある人は、既に立ち直る方向へ歩き出しているけれど、
個々の事情で大変さを抱える方々は、想いを共有する人たちが見えなくなるこれからがふんばり時。
その方たちが心安らかに過ごせるようになるまで、終わらない震災への関心を持ち続けていたい。
mixi、twitter、FaceBook・・・
様々なものを生み出しているネットの世界。
道具も使い方次第なのだけど、mixiは、知り合いとの親密な関わりに向いているように思う。
twitterでつぶやくことは、じっくり考えてから書く私には向かないけれど、情報収集もよい。
FaceBookは使うつもりはなかったけれど、某プロジェクト関係者必須のため使い始め、家にいながら仲間と仕事をするような場面に向く。
Websiteだけだった頃よりも便利になった反面、設定が細かくて思うように使えないところもあって。
何よりも、通信環境が貧弱だと、対応できないことがあるし、動画を当然のように見てほしいといわれても見られない。
当たり前に使いこなしている人が健康な人だとしたら、使いこなせない状況にある人は、疾患や障害のある状態と同じ。
そういった違いや不利を頭におきながら、使っていきたいのだけれど。
いろいろなところにアカウントをとり、収拾つかなくなっている昨今。
今もサイトはタグ打ち、時代遅れの職人風仕上げ。
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