障害と病気と健康のあいだで
最終更新日:2012/12/31[もどる↑]
障害と病気、障害や病気と健康な状態、何がどう違うのだろう?
モヤモヤしたままだったこと、改めて考えてみた

◆障害と健常  ◆病気と障害  ◆障害と障害  ◆医療と福祉

障害と健常

障害って、本当は特別なものではないのだけれど。
障害者という言葉を使うと、特別のように受け取られ、切り分けられてしまう。
でもちょっと考えてみてほしい。

足の怪我で松葉杖が必要になっても、その人を障害者とは言わない。
けれど、不自由さは、歩くことが不自由な障害者とあまり変わらない。
松葉杖の人だって、障害があると言えるのではないか?
じゃあ、なぜ障害者といわれる人がいるのか。
怪我ならば、松葉杖が必要なのは一時期だけ。
障害者なら、長い期間(生涯といっていい)必要になるだろう。
松葉杖で不自由でも、元気ならば、治るならば、我慢してやり過ごすこともできる。
けれど、数年、数十年、ずっと不自由なら、階段は避けたくなり、歩くことに疲れ、ふだんの行動範囲が狭まる。

先天性心疾患の障害があれば、重いものを持てない、疲れやすい。
けれど誰でも体調が悪くて休みたい時、疲れきっている時がある。そんな時は重いものを持ちたくないだろう。
じゃあ、障害のある人とそうでない人はどう違うのか。
たまに疲れる人と、いつもずっと疲れている人との違い。
例えば一日6時間なり8時間、授業を受けたり仕事をしたりする時、
たまに疲れるならば、休みを取るなり、その時だけちょっと頑張って家で休めば回復する。
けれどずっと疲れている人は、支障が出るほど何日も休みが必要になったり、疲労が溜まって家で何もできなくなったりする。
頑張れと言われても、ふだん余力がある人なら自身の持つ70%を100%にすれば頑張った甲斐もあるが、
いつも疲れている人は、せいぜい90%から100%にしかならないし、周りに合わせようと120%にすればダメージが大きい。

障害のある人、ない人(健常)という言葉があるが、その間にくっきりと境があるわけではない。
どこかで線引きすることになったのは、支援することを考えたり、不自由さをわかりやすくするためなのだろう。

何不自由ない健康な人を青色、日常生活すべてに介助が必要な人を赤色だとすると、私は紫。
障害者とは、公式には身体障害・精神障害・知的障害の認定を受けている人、だけど。
身体障害とひとくちに言っても、どこが不自由かで、できないこと・必要な支援は大きく違ってくる。
手足の動き、座ること立っていること、見ること、聞くこと、話すこと、平衡感覚、内臓・・・これだけのものがひと括りなのだ。
内臓(内部障害)だけみても、呼吸器、腎臓、心臓、肝臓、免疫機能、排泄機能など、広い範囲がひとまとめ。
だから障害という言葉があった時、この中でどこを指すのか、どれを基準にしているか、しっかり示すこと、しっかり見ることが大事。
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病気と障害

幼い頃から歩けないような障害があり、手術を重ねてよくしようとする医療を拒んだ方がいる。
痛くてしんどい治療を受けて二本の足で歩くことよりも、不自由でも車椅子で動くことを選んだという。
同じ事を心疾患の人ができるかといえば、難しい。
車椅子の生活を選ぶのもなかなかできないことだが、命が関わっていればなおさら。
でも考えてみればそれは、命を救うことが何よりも優先されるという価値観が前提にあるから。
二本の足で歩けた方がいいだろうという価値観の中で手術される人ならできる選択が、いいようもなく難しくなる。

足が動かない身体を、ふつう病気とはいわない。(医療の立場なら、疾患名がつくだろうが)
心疾患は病気とされるが、それを生活に支障ないように治療するというのと、足を動くようにするというのとは、どう違うのだろう?
そう考えると、先天性心疾患は障害なのだと腑に落ちる。
心臓の形が違い、構造を外科的に変えたところも、病気より障害と思える。
小児がんのように、よくないものを除いたり、後から臓器の動きなどに支障が起こり治療する、病気(疾患)にはそんなイメージがある。
産まれた時からの状態を、そんなイメージの病気と思われると、何かしっくりしない。

心臓病、心疾患、心臓機能障害、心畸形(心臓畸形)・・・いろいろな表現がある。
病は気から、だから病気ではないと、心疾患の方がよいと考える方がいる。
心疾患とは、心を患っていることだと勘違いする方もある。
障害といわれると、何か違うのではないかと思う方がいる。
畸形って、何か嫌な言葉だと感じている方がある。
私はといえば、心臓機能障害の表現が一番しっくりくる。
昔は嫌だった心畸形という言葉も、イメージ・価値観を措いてみれば、本質をシンプルに表すもののように思う。
同じような状況でも、どこに意識をおくかで、ふさわしいと思う表現が変わるのだろう。

先天性では子どもの病気と思われるので、何かいい言葉はないかと、医療者も悩んでいた。

難病で長く不自由が続く人で、障害の認定を受けられない人がいる。
特定の難病では、医療費の補助を受けられるが、対象者は病名で決まる。
障害にも臓器別の基準があって、そこからこぼれ落ちる人たちがいる。
難病と障害の間の、制度の壁。
たまたま障害の枠に入る心疾患は支援を受けやすいが・・・。
制度に区切られ、病名で区切られ、病気で大変なことは同じでも支援を受けられない人がある。
それは社会制度の不備なのだけど、時に妬みを生むことがあるので注意したい。
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障害と障害

見かけではわからない障害があることを知ってほしい。それはいい。
外見でわかるからいいよね、というならば、それは違うといいたい。
そう、確かに外見でわかる障害は、援助を受けやすい。
けれど、目に見えてわかることで、あからさまに差別されることがある。
その人ができることでも、危ないからと止められることもある。

目に見えてわからないから、怠け者と思われる。
体力的に難しいことまでも、やれといわれる。
どちらにしても、理解されずに困ることに変わりなく、大変さの質が違うだけ。

外見でわかるからいい、という時は、相手の見えない部分を思い遣っていない。
それは、自分が理解できる部分だけで判断しようとしているのだから、
見えない障害への健常者の対応と変わりがないではないか。

理解をという時、何を求めているのか。
障害者という枠組みにはまっていて、見えなくなったものはないか。
しっかり考えてみよう。
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医療と福祉

病気への対応は、先ずは医療なのだけれど。
入院治療を終え、日常に戻る時に気づく。
日常の大変さを補うために必要なのは、福祉。

それぞれの対応がつながらないし、スタンスも違う。
改善の必要があれば、今困っていなくても手をかけようとする、
何よりも患者がよくなることに力を注ぐ、それが医療。
改善の必要があっても、形式にそって申請があれば検討する、
障害者の困りごとよりも制度の維持を重視する、それが福祉。
その違いの大きなこと。
(個々の方は違うと思います、上記はあくまで業界としてのスタンスです)
医療がこんなにも患者のために動いていいものか、疑問に思うのも
福祉にこんなにも制度の壁があっていいものか、憤りを感じるのも
あまりに大きな差のせいもあるのではないか。

個々の患者を詳しく調べ、症状に合わせて対応する医療のように、
個々の障害者を詳しく調べて、生活状況に合わせて支援策を考える福祉になれば
日常がもっと楽に過ごせるのではないか。
病院内だけをみるのではなく、生活への配慮を重視する、
福祉へつなぐ役目の医療従事者が身近になれば
患者の日常の基盤がしっかりして、体調を崩すことも減るのではないか。

病気による障害があれば、両方必要なもの。
双方がしっかり手を結び、差が緩やかになりますように。
福祉制度を受けられるかどうかは、医師の診断書で判断されることが多い。
医師、特に専門医は、患者の日常の状態がよくわからないもの。
福祉の側で、生活の困難さを総合的みる立場の人をつくらなくては、
医師の仕事を、医療とは関係のない部分で増やすことになるし、患者の期待や不満も大きくなる。
福祉で受け持つべき仕事を、医師に肩代わりさせていることに注意を向けた方がいい。
それぞれが協働できる環境が必要ではないだろうか。
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