(2001.2.25.update)
難病や障害を取り上げるテレビ番組が多くなったが、
がんばる姿を美化するだけで終わると、がんばれない者は切り捨てられ、がんばらざるを得ない構造になる。
大事なことは、病気や障害を持つ人たちの中に、いかに健常者が入っていくかだ。
そのための具体的なノウハウがほしい。
「強きを助け、弱きをくじく男たち!」辛淑玉・講談社α文庫
こんな言葉に、勇気づけられる。
障害のある方から伝えたり、行動することも一つの方法だけれど、
テレビは、様々なことを伝えられるはずだから。
その力をもっとバリアをなくすために使えるのではという提案にうなづいた。
それをヒントに考えたこと。
電車に乗ろうとして、白杖の人の困っている様子に気付いて、何気なく声をかける、
職場とか友人同士で会食の後に薬を飲んでいる知りあい、
ちょっと急いている時に聴覚障害の人から電話をかけてほしいと頼まれ、断る。
これらをドラマの一場面にいかがでしょう。
脚本家の方、うまくストーリーにからめたシナリオ、できませんか?
同じ属性を持つ人が描かれていると、より身近に感じる。
違う属性ならば他人事と突き放して見ることもできるだろう。
けれど、病気や障害を描いたものは、他人事とは思えず、
感動の対象にされるのを見ると、当たり前に過ごしたい気持ちがささくれる。
私だって、ふだんがんばっている。がんばらないと、やっていけない。
支援を得られれば、もう少し肩の力を抜いて生きていけるかもしれないのに。
そして、私だって、感動したい。
だけど現実に様々な事態を過ごしてきたので、自然に見る眼が厳しくなっている。
特に、現実を加味してつくるドラマには、その思いを重ね、厳しく見てしまう。
かなしいかな、フィクションにリアルを重ねてしまうのだね。
でも、こんな私に勇気を与えてくれる作品もあるはず。
そんな作品に出会えることを願って、思いを綴っている。
聴覚障害者は、独特の文化を持っているらしい。
生まれつきの聴覚障害者は、音声言語を使うことはできないが、言葉を持っているという。
聴覚障害の子どもたちを集めると、教えることをしなくても、
自然に手話がうまれ、おしゃべりをするという。
聴覚障害者が多い世の中だったら、手話という言葉が当たり前だったろうし、
日常の様々なことに苦労しなくても済むだろう。
けれど、聴こえる者がつくり観るドラマの中の聴覚障害者は、
聞えないことは乗り越えるべきハンデとして、けなげさを強調される。
参考:「もうひとつの手話〜ろう者の豊かな世界」佐藤道雄・晶文社
聴覚障害のヒロインの映画、ろうの役者は初ということで話題になった。
役者が事故後車椅子になったことや、ろう者や肢体不自由者の劇団はあった。
でも、世の中に当たり前にいる障害者で役者がいないのはなぜだろう。
渥美清さんのように病気を抱えていた人もいたし、
心臓病の役者は、いてもわからないけれど。
そして、聴覚障害者のドラマだとしっかり字幕がついていたりして、
聴覚障害者は聴覚障害を話題にしたものしか見ないとでもいうのだろうか。
はやく当たり前に楽しめるものができたらいいな。一緒に楽しめたらいいな。
視覚的にリアルで時間の流れを入れられる、ドラマや映画。
それはともすればフィクションをそのものの姿とつい錯覚し、それが人々のイメージの中に染み付くこともあるだろう。
特に家のテレビで映し出されるものは、影響が大きいはず。
行間やコマの間に空白のある、書き物やまんが。
その空白ではわからないこともあるだろうけれど、そこから何かを見出すこともできるだろう。
空白のあるところに何かを感じるのは、それを埋めるだけの力をもっているからなのだろうか。
映像よりも本の方が納得できることが多いのは、なぜだろう。
演劇は、また特別。