少年は鳥になった! (2001.4.1.TBS)

[原作本の感想もあります↓]

主人公の少年と家族の強さ、彼らの支えになっていた周囲の人々の姿が心に響くドラマだった。

心臓病者としてみた時に、気になったこと

医療の内容が古いのに、現在の設定になっていたこと。
実在の病名とともに紹介されていたので、同病の人たちが誤解されないかと気がかりだ。
原作本の紹介記事からすると、十数年前に亡くした息子のことを書いたものという。
当時の設定として描かれていれば、今は違うと思えたが、ケータイ、電動車いす、と現在の設定、知識が乏しければ治療の面も現在を描いているものと思うだろう。同じ病気の子どものいるご家族にとっては、辛いものではないだろうか。

死が感動をもたらしていること。
実際に心臓病を持つ者としては、死で終わらせるドラマは辛いものがある。
同様に病気を持ちながら、自分はなぜ生きていられるのか。答えのない問いが思い起こされる。生きていくことは、亡くなった人たちへの礼儀。彼らの分までなどとは言えないが、せめて精一杯のことをするしかない。
でも、健康な人のペースで成り立っている社会の中で病気とともに生きていくことは、辛さが伴うもの。生きていく力を得たくても、心臓病者が死を迎える結末は虚しさにおおわれる。

ドラマの最後に、実話に基づいたフィクションであることが示されていた。「実話」という部分に気持ちが惑わされる。ドラマ化するために、もう少し丁寧に取材して状況設定することはできなかったろうか。
挙げられていた病名は「心室中隔欠損」。個々により病状は違うとはいえ、この病気だけならば、現在は医者にさじを投げられることはないだろう。専門医にかかり的確な治療の結果、ごく激しいものを除けば運動ができる場合も多く、健康な人とさして変わらない生活を送る人も多い。
そして、家族は少年を守っていたが、これほど尽くせる家族の状況もまた、かなり恵まれたものだ。余裕がなければ、なかなかできないことだろう。病気の子どもを持つ親のプレッシャーにならなければいいのだが。

養護学校ではなく普通の中学を選んだこと、学校側に事故を避けるため車椅子を使うことを求められたことの葛藤などは、素直に共感した。それらのことを家族が負わなければならないのは、何故なのか。そういう思いを持っていただく方がいてくれたら、と願った。
車椅子(電動!)で教室に入った時に、クラスの人たちのどうしたの?という大合唱がおきた場面、体調を崩しダウンした私も似た経験があり、やはり重さをあんな風に負っていたのだと、改めて気がついた。
このように、病者として共感する部分があっただけに、もっとていねいに描かれていたなら、と思わずにいられなかった。

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原作を読んで(長島价紀 著・草思社)


少年は鳥になった、の意味がわかり、この本を著そうと考えた父親の気持ちが伝わってきた。
前面に出された軽度の病名の他に、大血管転位(かなり重症)もあり、そのために手当ができない状況だったようだ。最初の診断の病名に引きずられたようだ。(本の中では「併発」となっているが、元々存在した状況を表わす病名。すぐに診断できる検査方法がなかった当時は、2,3歳になってから詳しい検査を受けるのが普通だった。そんな頃の感覚なのだろう)
そして、昔はかなりの危険が伴った検査の後に、原因不明の発熱から右手足の麻痺が起こったという。
様々なことがよくわからないままに、子どもは成長し、家族もそれを含んで生活してきたのだろう。
主人公は同い年と知り、ちょっと辛かったが、ドラマよりもずっと心に響いた。

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